血と魂の業を解く(読むほどのものではないただの整理と記録)




例えば、古いぼろぼろの書物を読んでいて、ようやく大詰めに差し掛かったところで、いざ次のページをめくってみたところ、紙が二枚一緒にめくれてしまい

「あぁ、くっついているのか・・・」

と、その紙をはがそうとするが、これがなかなか剥がれない。

無理に引きはがそうとすると、紙が古いためボロッと破けて砕けてしまうかもしれない。

何度か悪戦苦闘を試みるが、やっぱり駄目である。

仕方がないのでその先のページを読み進めてみたところ、肝心な場面を逃して「ネタばれ」してしまったのではないか・・・・

これは猶更この見れないページを読まなければ済まない。

それほど「重大事」が記されていると思われるから、もしかすると「わざと」見れないようにされているのでは?

とも思う。


そして、しばらく先へと読み進めていると、いつしかくっついたページが剥がれていたりする。

今までも何度かそういうことがあったから、進んでいればまた剥がれて見られることになるだろう。


恐らく、その肝心のページに記されているのは、現界(人界)で起こった「歴史の岩戸締めと岩戸開き」である。


・・・・と、今はそんな気分である。





私の家の出自は愛媛県の現在でいうところの「愛南市」という愛媛県の最南端で、高知県の「足摺岬」に近い県境の町である。

そこには同じ苗字の血縁者がたくさん居り、その本家に当たる家で、私で十三代目となる。

そして、家伝によると元は「長曾我部」だそうで、その初代の墓だけが屋敷の敷地内に据えられていた。

おそらく関ケ原後に刀を捨ててこの地に来たもので、伊達家との縁もありこの地に「豪農」として再出発をするときに名を改めたのであろうか、それとも伊予侵攻の際にこの地に根付き、関ケ原の後に名を改めたものかは定かではない。

関ヶ原役から十三代目は妥当な年月である。

そんな初代の墓を第二次大戦の時に軍部が来て、墓を掘り返して共に埋められていた刀を持っていかれている。

それは私の父が子供のころであったという。

だが、その家は父の兄弟たちがその地を離れるにあたって、散々土地を切り売りして散在し、30年ほど前に最後の屋敷も売り払い、完全に家は没した。

その屋敷を売り払う際に私も立ち会っていたが、その時、初代の墓の土を供養して現在の墓に移したわけであるが、その時、その墓石が「邪魔だ」ということで、父と買主が墓石を肩にかついで別のところへころがして退けたのだが、その後、買主さんは「首の骨」を折って亡くなり、父は癌で「首の骨」が一部無くなるという死に方をした。

祟りか・・・・・



そんなわけで・・・というわけではないが、自分の「血の業(カルマ)」というものを追いかけていたのである。


長曾我部は元々は「秦氏」であり、信濃の「秦能俊」が京都での戦に敗れて土佐に逃れて来たのが始まりである。

その信濃の秦氏は「更級郡(千曲川・犀川付近)」と史料には見られるが、松本市にも秦氏の痕跡があり、「波田」という地名もあり、どちらかというとそちらの方が古いのではないかとも言われている。

その松本市の中に現在「浅田城跡」が残っているが、これは元々の荘園時代の「浅田荘」という地名であったところである。

つまりは私の血の元を辿るとここへ行きついた・・・ということである。

この地で有名な人物と言えば「浅田宗伯」という医師がいる。

「浅田飴」を生み出した人物である。

子供のころ必ずこれを言われ、いちいち面倒な受け答えをさせられた記憶しかないが。



では、次に重要となってくるのが「秦氏」とは?

ということである。

多くの人が「秦の始皇帝」の一族や、秦国の住人であったものが朝鮮半島で「秦韓」と呼ばれていた一族・・・という説を唱える。

聖徳太子という「厩戸皇子」の名を持つ人物と昵懇であったことが、尚更「渡来説」を唱える後押しの材料になっており、私自身も「そうなのか」となんとなく思っていたが、どうも違う気がしてならない。

自分の中の「何か」がもっと別なものがあると告げる。


そうやって前述の古書のページをめくっていたら、貼りついて剥がれないページに行き当たった・・・というわけである。

そして、その先のページをめくっていったところに「角凝命(ツノゴリノミコト)」が出てきた。

「角凝命」は饒速日命と共に天下った三十二柱の防人のひとりである。

そして、「角凝命」から「鳥取造」という流れとなる。

鳥取というのはこの鳥取造(鳥取部)が由来である。

なぜ「鳥取」かというと、言葉がしゃべれない「誉津別命(ほむつわけのみこと)」がしゃべれるきっかけとなった「白鳥(鶴)」を捕まえて提供した時に「鳥取(とりとり)」の名が与えられたからである。


この「誉津別命(本牟智和気御子)」の時代の歴史はいかにも「何か」が起こったことを示している。



垂仁天皇の后妃「狭穂姫命(さほひめのみこと)」が「シスコン」の兄にそそのかされ天皇を暗殺しようとするが、結局、姫にはそれが出来ず、そのことを天皇に告白して兄の元へ去った。

その後、姫は身ごもっていた天皇の御子(誉津別命)を産むが、垂仁天皇は我が子も姫も愛おしいため奪還しようとした。

その際、姫は奪還しようと試みる垂仁天皇を拒んだ。

その時に姫が天皇に子供だけを渡し「この子は火の中で産んだのですから、名は本牟智和気御子とつけたらよいでしょう」と言ったという。

また「丹波比古多多須美知能宇斯王に兄比売と弟比売という姉妹がいます。彼女らは忠誠な民です。故に二人をお召しになるのがよいでしょう」とも言い残し、炎の中で兄に殉じて死んだ。


これはそのまま「産屋に火を放ち御子を産んだ木花咲耶姫」の神話であり、「兄比売、弟比売」は業火から御子を救った龍であり、そのまま「豊玉姫、玉依姫」の神話となる。


恐らく「国盗り」を「神話」に重ねて「大義名分」としたのであろう。

そうして「岩戸隠し」をして「二代目アマテラス」を「豊受姫(大御食神)」とした。


そうして垂仁天皇の後妻である「日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)」から「倭姫」が誕生し、天照大神を「伊勢」へと遷移させることとなる。

だが、その「天照大神」は「誰だ?」ということである。

後に「外宮」を設けて「二代目アマテラスである豊受神」を祀っているところを見ると、一体「誰」を伊勢に祀ったのか?




さて、話を「秦氏」に戻そう。

鳥取部と秦氏はどう関係があるのか?


鳥取部は誉津別命に「白鳥(鶴)」を献上したとされる。

その時、白鳥を捕獲するのに「紀伊国・播磨国・因幡国・丹波国・但馬国・近江国・美濃国・尾張国・信濃国まで鵠を追跡させ、越国の和那美之水門(わなみのみなと)に罠の網を張って捕獲させた。(wikiより)」とある。

これはどういう意味か?

「越国の和那美之水門」とは今でいう新潟の魚沼あたりと推定される。

ただ白鳥を捕獲するのにそんなことするわけもない。

おそらく「進軍経路」であろう。

もしくは「侵攻すべき国」といったところだ。



誉津別命には一夜妻とされる「肥長比売(ヒナガヒメ)」という姫が登場するが、その姫が出産するときに誉津別命が覗くと「大蛇(龍)」の姿で出産していたという。

そして誉津別命は逃げ出した・・・とある。


これは「豊玉姫」の物語そのままである。

これはワタツミ族であり出雲族であり従来の「ヤマト王権」を支配していった・・・ということに外ならない。

肥長比売とは「肥河(出雲の斐伊川)の龍神」のことである。



白鳥(鶴)は「鶴の恩返し」の物語でその本来の姿が現れる。

機織りを覗かれ去ってゆく。

つまり「機織り」であり、それは「神の巫女」である。

鶴と龍は合わせ鏡で重なる。

「龍蛇族の巫女」=「龍蛇族の女王」であり「日皇女(ひみこ)」である。



かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?


誉津別命とは「だあれ?」であるか?




忘れていた。

秦氏である。

大阪府阪南市に「波太神社」という古い神社がある。

元々「波太」という地名の場所であり、それは「秦氏」ゆかりの地でもある。

この「波太神社」の祭神が「角凝命」で、この神社が別名「鳥取大宮」で「鳥取郷の総社」であるとされる。

また「応神天皇」も合祀されている。


「角凝命」もしくは「角凝魂命」といい「角杙(つぬぐい)活杙(いくぐい)」の「角杙の魂」であり、国常立から伊弉諾伊弉冉までの間の七代の神である。

倭文連(しとりのむらじ)の祖であり「倭文神社」で祀られる「天羽槌雄神」で、武神であるが同時に「機織りの神」でもある。

「倭文神社」は鳥取の「一の宮」である。


だが本来、饒速日命に随伴した鳥取連は「少彦名命」が祖である。

「少彦名」といえば「大国主」の国造りに貢献した神である。

秦氏の神社には結構な割合で「少彦名」が祀られている。



秦氏は渡来人であるという。

神功皇后が連れてきたという渡来人が、ほんのわずかの間に日本中にその版図を拡げた勢いはあまりにも桁外れすぎると思う。

どんな繁殖力なんだと言わんばかりの広がりようである。




・・・・


応神天皇の別名を「誉田別命」とも言い「八幡神」とも呼ばれる。

さらに「凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)」ともいう。


「誉田別命」を祀る気比神宮の祭神は「伊奢沙和気大神之命」であるが、これは古事記では「岐比佐都美(キヒサツミ)」であり、ゆえに「気比神宮」なわけである。


この「岐比佐都美(キヒサツミ)」は「出雲国造」の祖で、「神名火山(神奈備山・島根の仏教山)」の精霊ということである。


この山に祀られているのが「伎比佐加美高日子命(きひさかみたかひこのみこと)」であり、本来の「出雲の神」のはずなのである。


さらに追っていると出雲の「那売佐神社(なめさじんじゃ)」という、これも出雲発祥とされる神社で、「和加須西利比売(わかすせりひめ)」に行き当たる。

これは素戔嗚命の娘「スセリビメ」であるが、しかし「ワカ」が冠されている。


まあこれは余談であり、追いかければ迷いの森に入るのでやめておく。




問題は、この時代に「出雲征伐」が行われたということである。


ここで一つの物語を持ち出してみる。


「浦島太郎」の物語である。


浦島太郎は助けた亀に招かれて龍宮城で時を過ごして後、家に帰ったら村人は一人もいなくなっていた・・・というものである。


これを第七十三代武内宿祢氏は「亀は巫女で、その巫女を同国人が襲っていたのを浦島太郎が助け、その礼として巫女の国に招かれ歓待され、その巫女と結婚したが、その間に同国人は巫女を襲ったために滅ぼされたのだ。」と語っていた。


これがいわゆる「椎根津彦(珍彦)」であり、「籠神社」の祭神「彦火明命」となり、「瓊瓊杵尊」へと変遷する時ではないかと推察される。


「籠神社」では「前天照皇大神」=「瀬織津姫」となっており、「アマテラスの岩戸隠れ」ならぬ「岩戸隠し」となった時代であろう。


記紀にも「出雲征伐」が記されている。



ではどこに「隠した」のか?

それは「隠岐の島」しかない。

何かあるとすぐに「島流し」として「隠岐の島」へと流す。


隠岐は島根県であるが場所的には鳥取の海である。




・・・・


「誉津別命」と「誉田別命」は別である。

であるが・・・これは恐らく「表裏(おもてうら)」ではないかと思う。

岩戸を閉めた「誉津別命」と岩戸を開けた「誉田別命」

この誉津別命と誉田別命の間には「ヤマトタケル」がいて、神功皇后がいて・・・という時代である。

国内は「戦乱」であり「暗殺」がひしめいていた。

そしてそのころに一斉に「渡来人」が渡ってきたという。



これらの流れを「神話」というもので「上書き」され、様々な「つじつま合わせ」のような出来事でひしめいている。




かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?




・・・・


これを書き始めた翌日、少し貼りついたページが剥がれてきた。

どうやら「秦氏」というのが日本に現れたのは『秦国』がまだ健在であった時代。

秦と賀茂は行動を共にしていたようで、「始皇帝」が「道教」「仙道」を実践していたところを見ると「賀茂氏」と通ずる共通項が伺える。

つまりは、秦国が亡ぶ以前から交流があったということだ。


たとえば「秦国」の立ち位置で見てみると、秦が中華統一を掲げているなら当然、その周辺事情も把握せねばならない。

中華と言われる版図の先には朝鮮半島があり、そこと敵対するわけはなく、かえって味方としての交流を望むだろう。

そして、そのころの朝鮮半島の宗主国は日本(ヤマト)である。

なら当然ヤマトを知ろうとするだろう。


かたやヤマトも「中華の戦乱」を注視している。

当然、朝鮮半島から情報は入ってくるわけで、半島に「伽耶」という日本府を置いていたのだから当然である。


そんな両者が出会い、交流しても何の不思議もない。

それは、中華統一後、始皇帝が「徐福」を差し向けたことでもよく理解できる。

あらかじめヤマトの情報があり、友好国であった証でもある。

中華統一すれば朝鮮とは国境を接するような距離にまでなるのだから。



たぶん多くの人は昔のヤマト王権は「閉鎖的な島国」とでも思っているのか、外遊などしたこともないと思っているのか・・・

恐らく学者やメディアによって洗脳された「縄文時代」のイメージが、思考に蓋をしてしまっているのだろう。

日本は海洋国家であり、太古より船を操り海を駆けまわっていたのである。

ニギハヤヒは巨大船で中東まで行き来していたくらいである。



ヤマトの中枢を担っていた「賀茂氏」と「秦国人」が、お互いに情報や技術を交換し合っていてもおかしくはない。

モーゼ、イエス、マホメッドが越国にまで来ているのである。

そもそも始皇帝自身が中東方面から流れてきた一族である。



そういえば、饒速日命の随伴三十二柱の中に「月神命」がある。

「月読命」ということであり、海外に派遣された指導者であるはずだ。

それが「弓月国」だったかもしれない。

ヨハネやイエスが教えを受ける前に、始皇帝自身教えを学んでいてもおかしくはない。

秦氏が稲荷をあちこちに造ったことを考えれば、それも当然あり得ることである。



いや、それを言うなら饒速日命自体がシュメール(スメル)から現れたはずである。

武内宿祢氏によれば「行って帰ってきた日本人」ということである。

つまりは「秦国人」も「行って帰ってきた」部類に入るのだろう。

神武天皇自身も「行って帰ってきた」人であるのだから。


海を渡って先に帰ってきたものと、陸伝いに長い年月をかけて帰ってきたものと・・・

時間差でのバラバラな帰還が歴史に混乱を招いているのだろう。

饒速日命の三十二柱のうち十二柱が陸伝いにゆっくりと時間をかけて帰ってきたのかもしれない。



・・・という落ちであきらめるしかない。

もはや霧の中である。

そのうち貼りついたものも剥がれるであろう。


ただひとつ言えるのは、「誉津別命」と「誉田別命」の間のほんの一代二代の出来事。

神功皇后とヤマトタケルの「クーデター」とも見える出来事だけが張り付いて剥がれないままである。



かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?