「中枝の神々?」の混乱 《癒奏術・弥勒・序》




仕事をすべてストップしてから、もう二か月になる。

それと同じく自宅にある神棚へのお神酒や祝詞も一切行っていない。

これが今の「導き」である。



それらを止めておよそひと月の間は、様々な「神々?」といえるほどのものではない神々が

「助け」を求めてきた。

神を自称していながら神らしからぬものばかり。


それら「中枝の神々?」は自ら本当の「神々」との『渡り』がつけられない。

天狗になった「それら」は、自分たちが「神」と称してきたのであるから、自分たちのさらに上の「神」など『認めてこなかった』わけであり、だから「自分が神を見放している」から「見放されている」のである。


神棚に向かう時、「それら」が出てくるわけである。

だが、基本「天狗」になった「それら」の言葉を『一切聞く必要ない』という『導き』であり、だから神棚への祝詞も何もストップした。

そうすると、「それら」はまるで『祟り神』のような状態になる。

ほんとうに『何様だ?』と思う。


来る日も来る日も何事かを訴えかけてくるが、一切聞かないようにした。

あまりにもひどいときは『祓い』をして追い払った。

そうしてひと月ちょっと過ぎてようやく静かになった。



今まで人が「神」としていた「それら」は大騒動である。

おそらくそれはやがて現世にも映ってくる。


あと一年もしないうちに。




現実を見ようとしなかった守護神に導かれた人々は、同じく現実を見ようとしない。

現実を「塞ぐ」ことで「神」となった「それら」に、何を守護され、どこへ導かれゆくのだろうか?

目の前の現実を遠くへ押しやって、空想の中へと逃げ込んでゆくばかり。



今から半年過ぎればもう春分である。

来年などあっという間に来るだろう。

腹を括れていなければ、そのとき人は更なる次元下降へと向かう。

その時ようやく自分が立っている『道』を、突き付けられて知ることになる。

だがそれも、自ら招く「業」である。



ここからは 心の中が 「神の宮」