縁(えにし)を喰らうもの 《癒奏術・弥勒・序》




おおかたの人というのはこのようなものである。

「ただ喰らうだけ」



【縁(えにし)】とはエネルギーの「通り道」

そのエネルギーは「水」そのものであり、「高いところから低いところ」へと流れる。

ゆえに人は遜(へりくだ)る。


心の中では「謙遜」などしていないが、態度だけ「遜る」のである。

「慇懃でしょう」と言わんばかりに、天狗の心である。

それを『慇懃無礼』という。




そうやって人は【縁(えにし)】を喰らう。

慇懃無礼な鼻高天狗だらけの世界。

縁を喰らい、縁を乱し、縁を利用する狡猾な狐の世界。


穢れた縁を縁で清め、穢れを移し広げる。





霊界で【縁(えにし)】の切り替えが行われた。

そして、それは時間と共に現世に現れる。



劔をもって縁の糸(意図)を断ち、あるべく姿へ返す。

昨晩、三度目の大祓いを行った。




時ここに至って未だ「喰らう」「乱す」「利用する」だけの『縁の糸(意図)』を放つ者は、もはや見放すより『他なし』である。

心と態度がチグハグなまま、未だ心・口・意の一致せぬもの。

慇懃無礼な天狗や狐。


かつてはそれで「まかり通った」世界は終わりである。




傲慢な心も、遜(へりくだ)る心も、正常な「自愛」無きゆえ「尊厳」を損なう【縁の糸(意図)】となる。


心の穢れは「縁の糸」の穢れ

穢れた【縁】を誰が結びたがるか?



穢れも病み(闇)も【縁】によって伝播する。

病を祓う龍王は、薬師如来は、病みを伝播する【縁】を断つ。


「慇懃無礼」は「病み(闇)」である。

無用な不遜も遜りも、尊厳を穢すだけの【縁】



そんな【縁】の大掃除をしている。


【縁】という「道」を通り「生き霊」は行き来する。

ゆえに霊界で『縁の掃除』が行われた。




仏さんが下界に垂らした『蜘蛛の糸』は『縁の糸(意図)』

それはいつまでもあるわけはなく・・・

神でも逆らえぬ『時限の理』の中にある。