『問答無用』~時神の采配 《癒奏術・弥勒・序》




ここから先は問答など無意味な世界となってくる。


すでに二線に分離して、白黒斑(まだら)は色分けされる。

分離したものを調和するにはもはや時は遅い。

そもそも既にその「土台」は失われていたのだから。



分離し分断する世界。

綺麗ごとで「統合」するなどというのは偽善でしかない。



自ら答えを感知し応えゆくものと、敷かれたレールを進むもの。

2:8という数字は既に出た。



されど、感知し応えを出すだけでは生きては行けぬ。

『鋼の意思』が無ければ先へは進めぬ。

そのために、『天津彦根』と『乙姫殿』が生んだ『天目一箇の刀鍛冶』

意思を鋼の劔とせねば、曲げられ折られてしまうだけである。


あと一年もせぬうちに、それが嫌でもわかるだろう。



身を生きるか魂を生きるか・・・

身を生きれば意思は曲げられ折られて「畜生道」。

魂を生きれば「茨の道」。


その「茨の道」を生きるため、現実を映す「真経津の鏡(気付き)」と「鋼の劔(意思)」が必要なのである。



もはや『問答無用』である。

分かれたものは戻りはせぬ。

進む道を進むのみ・・・



同じ道に立たぬものはもはや別の世界の住人。

それが『時の神』の采配である。


「慇懃無礼」なものなど要らぬ。

【神】がそれを許しはせぬ。





ひふみ神示 地(くに)つ巻 第十六帖

神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪にまけて汚して仕まうて、それで不足申してゐることに気づかんか。一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申してゐるでないか。それはまだよいのぞ、神の面かぶりて口先ばかりで神さま神さま てんしさま てんしさま と申したり、頭下げたりしてゐるが、こんな臣民一人もいらんぞ、いざと云ふときは尻に帆かけて逃げ出す者ばかりぞ、犬猫は正直でよいぞ、こんな臣民は今度は気の毒ながらお出直しぞ、神の申したこと一分一厘ちがはんのざぞ、その通りになるのざぞ。うへに唾きすればその顔に落ちるのざぞ、時節ほど結構なこわいものないぞ、時節来たぞ、あはてずに急いで下されよ。世界中うなるぞ。陸が海となるところあるぞ。今に病神の仕組にかかりてゐる臣民苦しむ時近づいたぞ、病はやるぞ、この病は見当とれん病ぞ、病になりてゐても、人も分らねばわれも分らん病ぞ、今に重くなりて来ると分りて来るが、その時では間に合はん、手おくれぞ。この方の神示よく腹に入れて病追ひ出せよ、早うせねばフニャフニャ腰になりて四ツん這ひで這ひ廻らなならんことになると申してあらうがな、神の入れものわやにしてゐるぞ。



第二十五帖

新しくその日その日の生まれ来るのぞ、三日は三日、十日は十日の神どの守るのざぞ、時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節にはかなはんことあるのざぞ。今日なれば九月の二十八日であるが、旧の八月十一どのを拝みて呉れよ、二十八日どのもあるのざぞ。何事も時待ちて呉れよ、炒豆(いりまめ)にも花咲くのざぞ、この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。何事もその時節来たのざぞ、時過ぎて種蒔いてもお役に立たんのであるぞ、草物いふぞ。



うみの巻 第十四帖

何も分らん枝葉の神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、早う其の神と共に此処へ参りて、マコトの言を聞いて誠に早う立ち返りて下されよ、◎九十(マコト)とは◎一二三四五六七八九十であるぞ、一二三四五六七八かくれてゐるのざぞ。縁あればこそ、そなた達を引寄せたのぢゃ、此の度の二度とない大手柄の差添へとなって下されよ、なれる因縁の尊い因縁をこわすでないぞ。見て見よれ、真只中になりたら学でも智でも金でもどうにもならん見当取れん事になるのぢゃ、今は神を見下げて人民が上になってゐるが、さうなってから神に助けてくれと申しても、時が過ぎてゐるから時の神様がお許しなさらんぞ、マコトになってゐれば何事もすらりすらりぞ。



五十黙示録 至恩(シオン)之巻 第十二帖

判らんと申すのは一面しか見えぬことであるぞ、双方を見る目に、早う改心致してくれよ。この白黒まだらな時は長くつづかん、最も苦しいのは一年と半年、半年と一年であるぞ、死んでから又甦られるように死んで下されよ、マコトを心に刻みつけておりて下されよ。