シヴァの女王 《癒奏術・奥宮》




『シヴァ』と聞くと「ヒンドゥーの神」を想像するだろうが、これは『シヴァ神』のことではなく実在した『女王』のことである。


実は、ヨルダン川について以前からずっと様々な疑問を持っており、それは「ひな形としての日本」との『対照』についてである。


ヨルダン川西岸に『エルサレム』が位置している。

そのエルサレムの『対照』となる「ひな形」は何処に位置するのか?


第73代武内宿祢氏は『伊勢』がそうであると言い、大本教の出口王仁三郎氏は『由良川』がヨルダン川であると言う。

こう言われると『どちらが本当か?』という思考に陥るものであるが、ある意味「誘導されている感」も否めない。


私は「引っかかるものはそのままにはしない」たちなので、やはり自分なりに検証(審神者)してみる必要があると思って、以前から目星は付けていた。

それは『ヨルダン川=紀の川』という推察である。

さんざん地図を照らし合わせて、様々な地形やその他の「関連性」というものを納得できるまで追いかけてみようと、世界情勢の現状もあり、つい最近そう思って再度調べてみた。



紀の川をヨルダン川に見立てると、エルサレムの位置は「明日香村」や「橿原市」や「御所市」あたりが該当となる。

ここまではいいとして、この先がなかなか進まなかったのだが、急に道が開けた。

それは『神武天皇』を追いかけてのこと。


神武天皇が橿原の地で「即位」する以前、何処にいたか?

高千穂である。

では「高千穂」の「対照」となる地域は何処か?

という疑問に行き着く。

神武天皇は「なぜ高千穂」に来たのか?

その地を選んだのは意味があってのことであるはずだからだ。



九州は世界地図に照らせば「アフリカ大陸」であることはすぐにわかる。

そして、この「アフリカ大陸」と「九州」をどのように相対させるかであるが、どうしてもイスラエルと地続きの場所に目が行ってしまうが、基点となるのは『関門海峡』であり、そこに相対するのは「スペイン」と「モロッコ」の間にある『ジブラルタル海峡』である。

つまり「モロッコ」あたりが「北九州市」となる。

「エジプト」は「宇佐」の辺りであろう。


すると「高千穂」はどこだ?と地図を漫然と見比べて当りを付けたのが『エチオピア』である。

そうして「エチオピア」について調べてみると・・・・ビンゴ!


《エチオピアの伝承上の起源は、紀元前10 世紀頃、旧約聖書「列王紀」に出てくる『ソロモン王』と『シバの女王』の間に生まれた『メネリク1世』の建国によると言われ.ています》


そして

《メネリク1世は、古代イスラエル王ソロモンとシバの女王マーケダーの間に生まれた息子で、紀元前10世紀頃のエチオピアを統治したとされている。現エリトリアのハマシアンで誕生し、成長してエルサレムを訪問すると父ソロモン王に歓待される。ソロモン王からイスラエルの王位を継ぐよう説得されるが断り、ソロモン神殿にあった「契約の箱(聖櫃)」をエチオピアへ運び去った。その後、メネリク1世は母の女王マーケダーから王位を継ぎ、エチオピアはダビデ王直系の男子相続による新たな「イスラエル王国」として創始された・・・とされる(wikipediaより)》



つまり「神武天皇」の一族は『ここから』来たのだろう。

もしかすると「契約の箱」も確かに持ってきたのかもしれない。




ソロモン王とシヴァの女王の物語は旧約聖書の中においてだけでなく、キリスト教、イスラム、エチオピアと多岐にわたり、「編纂者」ごとに様々な異説物語があるが、日本の神話にも「編纂者」によって様々な異説(記紀、先代旧事本記、ホツマツタヱ、竹内文書、九鬼文書etc)があるのと同様であり、それらは「合わせ鏡」のように見て取れる。

異説の中には「ヤツガシラの鳥」も出てきており、「八咫烏」との符号性もうかがえる。




・・・・・・・



さて・・・

ここまで辿ってきてみたが、タイトルの「シヴァの女王」について辿ろうとするが、どうにも判然とせずに途絶えてしまう。

現在で言うところの「イエメン」あたりにシヴァ王国があったとされるが、正直なところ「不明」という感じで行き止まる。

イエメンはひな形日本に対照してみると、おそらく「那智勝浦」あたりになるだろうか・・・


シヴァの女王へなかなか行きつかないので、じゃあタイトルを変えようか・・・と思うがそれも違う気がする。


仕方なく辿るのをあきらめた。



・・・・・・・



すると半日もすると何故か「茗荷」が気になりだした。

以前にも調べていた「茗荷紋」から「摩多羅神」、「秦氏」と繋がる系譜である。

やたらと気になるので再度調べてみたところ・・・・


「シヴァの女王」に行き着いてしまった。




旧約聖書に於いて「ダビデ王」と「シヴァの女王」と出ているわけで、その「シヴァ」はヘブライ語にすると「シェバの女王」ということであり、「シェバ」とは「蚕(かいこ)」のことで『絹織物』を指している。

つまり「絹織物生産を得意とする国の女王」ということで「シェバの女王」と言ったわけである。


「ペルシャ絨毯」を思い浮かべればわかるように、織物技術はペルシャ人の得意とするところであり、シヴァの女王がペルシャ人(アラブ人)であったことがわかる。

そして、そんな機織り技術を持った人々が東へ流れていき「秦氏」となったのが見て取れる。

秦氏は確かに「機織り技術」に長けていた。


以前、秦の始皇帝の遺骨が発掘されて、現代科学でその骨格に肉付けをしたところ、明らかに「アラブ系の人種」であったことが判明した。

だから中国はあわてて隠したのだが・・・



現代の日本人は想像しにくいが、平安の頃でも国内には様々な人種の人たちが当たり前のように暮らしていた。

様々な技術や風習、そして言語を話す人々が、交わりながら生活していた。

それゆえに日本語は言語数も多く、現代でさえ外国語を平気で母国語に修めてしまう「習合力」を持っている。

空海はひらがなを作る際、そんな日本人にはない「ゐ」や「ゑ」や「を」などの「音」のひらがなも作っている。

日本語に慣れてゆく外国人も、染み付いた発音まではなかなか変わらない。

だがそんなものもちゃんとひらがなに「習合」してしまったのだろう。



だから、アラブ系の面影を残した「秦氏」のような人々が大勢いたのだろう。


その秦氏の日本での祖とされる『秦河勝』が赤穂の地に造った「大避神社」に『ダビデ王』が祀られているところを見ると、やはり「秦氏」は「シヴァの女王」の国の系譜を持っているのだろう。


「ダビデ王」と「シヴァの女王」の物語で「シヴァの女王は太陽神信仰からユダヤの神に回心した」とされている。

そしてユダヤ暦は「陰暦」という「月の暦」である。

『月弓王』ともされる「秦氏」がそれを物語っている。


そして日本も長らく「陰暦」であった。





ソロモン王とシヴァの女王の息子の一族が日本へやってきて、「三種の神器」を見せたことで「国譲り」が行われた。

その後、別ルートから「シヴァの女王」の一族も日本へやってきて、この国で手を取り合って国を発展させた。

なんと夢のあるめぐり合わせであろうか。



そういえば以前に書いた記事で「ソロモン王とシヴァの女王」の絵を使っていたことを思い出した。


ユダヤの地に「凝りて生まれた悪鬼」が、長い時を経て世界を破壊してきた。

そして今、再び戦火をまき散らし始めている。


ほんの一部の「シオニスト(四怨)」たちが、ユダヤ、アラブの人々の命を薪のようにして「四怨の炎」を世界に広げようとしている。

ソロモン王の人々と、シヴァの女王の人々を「相争わせ」ているのである。




癒奏術・響庵ブログ

神人一致の理を実現する「響庵」のブログ