奥宮、了する 《癒奏術・奥宮》
さて
大方の神々様が【奥】に上がられたので、わたくしも【奥】に引きこもり『巣籠(すごもり)』しようと思います。
やらなければならないことを後回しにしてきたので、そちらに力を向けていこうと思います。
なので、ブログもこれ以上書くことは、しばらくは無いだろうと思います。
次に書く時は『未来』という土台の上であり、「同じ土台」に立つ人と『未来』を築くために始まるでしょう。
いまだに過去の大地に立ち続けている方々とは本当の別れとなるでしょう。
過去に立ち続ける人は「見捨てられた」と言うでしょうが、それは全くの言いがかりで、「未来を見捨てたのはあなたたち」であることに気付かなければ、そこに救いはないでしょう。
「未来より過去を選んだ」のですから。
意味が解りませんか?
なら仕方がないでしょう。
新しい未来と言いながら、未だに未来を「過去の延長線上」に於いているのですから。
気付いているのに考えないようにして、見ないようにして、言わなければ存在しないことのように、聞いていないことにすれば存在しないことのように、何より気付いていないことにすれば「しなくていい」ことのように・・・・
自ら岩戸を塞いだ手に気付きながら、その手を放さない。
だから救いが無いのです。
だから救いようが無いのです。
自ら【神】の示現を阻止している自分に気付いていながら、気付かないふりをしている自分に気付かない。
善なる神より悪なる神を選んだ自分に気付かないふりをして、その「言い訳」ばかり探し回って、都合のいい言葉に寄り集まる。
少し考えれば、それこそが「救い」を妨害することであるとわかるのに・・・それでもその道を掴んで離さない。
すでに『未来』を捨てているのです。
だから『未来』に連れて行きたくとも連れて行けない。
救いようが無いから救えないのです。
今後、未来を見捨てた人たちに、救いの手は届かないでしょう。
もはや『時間軸が違う』のです。
もし、未来を救いたいと「改心」するならば、今まで残した道しるべを辿って登ってくることです。
そうして『門』をくぐれたなら、救いの手は差し伸べられるでしょう。
偉そうなことを言う・・・と思いますか?
そう見えるならそれは「自分の中にある闇」の『写し鏡』です。
白と黒 二線の交わり 仕舞なり
最後に、神々様からの慈悲の雨です。
ひふみ神示 雨の巻 第九帖
神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行く程ンプ出来て来て天地の差となるぞ、⦿の神の薬のやり方 悪の神の毒のやり方となるぞ、神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ。
何もせんでゐて、よき事許り待ちてゐると物事後戻りになるぞ、神の道には後戻りないと申してあろがな、心得なされよ、一(ハジメ)の火 消へてゐるでないか、まだ判らんか、都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾の様な心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りてまことのない教への所へは人集まるなれど、誠の道伝へる所へは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、幾ら人少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時に神が引寄せると申してあろがな、人間心で心配致して呉れるなよ。
目眩する人も出来るぞ、ふんのびる人も沢山に出来て来るぞ。行けども行けども白骨許りと申してあろがな、今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがるなれど、上にあがりきらん内にぐれんぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元から判ってゐるから もう無茶な事は許さんぞ。軽い者程 上に上に上がって来るぞ、仕組通りなってゐるのざから臣民心配するでないぞ。
今度 神の帳面から除かれたら永遠に世に出る事出来んのであるから、近慾に目くれて折角のお恵みはづすでないぞ、神 キつけておくぞ。人の苦しみ見てそれ見た事かと申す様な守護神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、世建替へて先の判る世と致すのぢゃぞ、三エスの神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬でうらはらであるぞ。
五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ、力生れるから、カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除する事 大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜて こねまぜて天晴 此の世の宝と致す仕組ざぞ、判りたか。
一方の3Sより判らんから、人民 何時も悪に落ち込むのぢゃ、此の道は中行く道と申して知らしてあろがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待ってゐて下されよ、誠の教ばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行(おこない)出来んと此の道開けんぞ、理屈申すでないぞ、幾ら理屈立派であっても行(おこない)出来ねば悪であるぞ、此の世の事は人民の心次第ぞ。
0コメント