日本人の【当たり前】を壊し行くもの 《癒奏術・山桜の章》
能登・新潟地方の震災の直後から『被災地に行くな』というとんでもない指令が出て、その指令を後押しするかのように『迷惑論』が飛び交い、被災者を『助けよう』という至極あたりまえの行為を『悪』であるかのような【流れ】を作る。
人と人との『繋がり』というものを「破壊」する行為が行われているのだが、多くの人はその「言葉」に戸惑い躊躇し自らの「思考を停止」させた。
身・口・意の三蜜一致と何度も何度も綴ってきたが、いとも簡単に三蜜を「寸断」される様を見ると、どうして人は自分の『意』というものに「信」を置けないのだろうかと悲しくなる。
應無所住 而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)
「金剛般若経」の中に出てくるこの言葉
諸菩薩摩訶薩ー 諸々の菩薩(ぼさつ)摩訶殺(まかさつ)は
應如是生浄心ー 應(まさ)に是(かく)の如く浄い心を生ず
不應住色生心ー 應(まさ)に色に住して心を生ず不(べから)ず
不應住声香味触法生心ー 應(まさ)に声香味触法に住して心を生ず不(べから)ず
應無所住而生其心ー 應(まさ)に住する所無くして 而(しか)して其の心生ずべし
沢庵禅師は語った
目の前で子供が崖から落ちそうになった時、どんな悪人でも「あっ」と思い身体が勝手に反射する。
それが『菩薩心』であると・・・
身・口・意の三蜜が揃った状態は、「あっ」となって手が出て、崖から落ちそうになった子供を救う。
そこには髪の毛一本の入る隙間もない「間髪入れない」という状態である。
それが『應無所住而生其心』
住する(囚われる・引っかかる・執着する)ところ無く「心を生ずる」ということ。
震災が起こり「大変だ」となり、「大丈夫か?」となり、「助けたい」と心は自然に生ずる。
助けられるとか役に立てるとか、そういう以前に人は人として当然の「心を生ずる」。
そこに「被災地に入るな」などという『色』が入り込んだわけである。
身・口・意の間に「間髪入れない」ほど「隙の無い」人は、そんな声など入る余地はない。
それが『菩薩の境地』である。
だが、その『色』に逡巡したもの・・・・
『菩薩』からは遠い。
弥勒世界は菩薩の世界
余計な『色』に囚われず、「すべきことをする」人の世界である。
それが出来るのは自分の『意』に『信』があるものだけ。
信は芯である。
つまりは『〇』ではなく『⦿』であるということだ。
日月神示の『⦿』は三蜜揃った誠
誠とは『⦿』である。
芯である『・』の意が揺るがない人の事である。
自分の子供が溺れていて、助けようとして「待て」と言われて待つのか?
では友人ならどうか?
知人ならどうか?
近所の人ならどうか?
なんとなく知った顔見知りならどうか?
赤の他人ならどうか?
そのグラデーションの中で、どこから「待つ」を選択するのか?
赤の他人でも救ってきたのが日本人である。
外国の人のため、自分の得にならぬ正義を遂行してきたのが日本人である。
そんな「大和魂」が破壊されているのである。
だが、その魂と現実との隙間を、戦後数十年でどんどん押し広げられてきた。
だから、「被災地に入るな」という、こんな簡単な『色』に躓き、囚われ、逡巡する。
彼らはこの「隙間」をこじ開け押し広げようとしている。
彼らが最も恐れるものだからである。
隙間をこじ開けるために「愛」を「情け」で覆い隠す。
間髪入れない三蜜揃った「愛」の行いを、くだらぬ善悪の「情け」で塗りつぶそうとしている。
人は「情け」にすぐ引きずられる。
だが、情けとは「〇」である。
情けの善は反対側から見れば悪である。
だが、愛は「⦿」である。
何処から見ても『・(芯)』は変わらない。
それぐらいの判断がつかなければ弥勒世界は拝めない。
判断をつけるために「〇」をいくら考えても無駄である。
「・(芯)」がわからなければ判断はつかず、「・(芯)」がわかれば考えるまでもない。
どっちが正しい?
と迷った時にはすでに「・(芯)」がないということである。
日月(⦿)とは、右脳と左脳が調和し、五感と思考が調和し、身と心が調和し、魂と自己が調和している状態である。
その調和を破壊されているのである。
調和とは一致
間髪入れない隙の無い親和
だから揺るぎない自己となる。
菩薩の清浄心とは「色」に囚われぬ心
泉の如く湧き出た「意」を心に満たし、言葉にし、行動へと転化する心
天穂日と木花咲耶の御子たる観音力『彦火々出見』は『清浄心』を司り、囚われの「色」を浄化する炎である。
神意をそのまま体現し、この世に示現させる清浄な流れを妨げる「邪」なる「情け」の「穢れ」を炎で焼華する。
木の花咲かせるその意味を しかと知るべし
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