【劔の三女神】~劔の在り方 神の在り方 《癒奏術・山桜の章》
一口に「劔」といっても、そこには歴とした在り方の「理」が存在している。
劔というものの『型』があり
斬るという『要素』があり
使うものの『意を結ぶ』役割がある
「劔」とは「武器」であり「戦う道具」である。
ゆえに「戦う」ということの中に生まれる。
その意思が滾りて劔の型となり
滾りが極みて劔の要素となり
使うものを結んで初めて劔の役割を果たす
そうして『劔』が生まれるわけである。
つまりは劔の在り方である型が【多紀理比売】ー【下照姫】
斬るという要素である「刃」が【多岐都比売】ー【高照姫】
結ぶという握りのための「柄」が【市杵嶋比売】ー【狭依姫】
だから下照姫は「在り方」を教え、高照姫は「斬る」ことを教えてくれる。
そして十拳劔を振るう時、「柄」である「結び」の狭依姫が意識に重なる。
だから、イメージして振るっても、予想以上の作用と効果が現れることになる。
私の意識が「修正」されて振るわれているからである。
劔という「武器」である三つの要素が三女神となったということ。
だからこそ【九十九神(つくもがみ)】という「物」の神や霊を最も知る女神である。
物の「在り方」と「要素」と「結び」
この三つの理合を誰よりも知っている。
前回、唐突に現れた「下照姫」と「高照姫」が教えてくれたのはそういうことである。
無駄のない教えの中に、幾重にも「理合」が重なっていた。
下照姫の「試し」は、「見抜く力」を持てという事。
見た目に惑わされず、在り方を「見抜け」と・・・
そして、それは「人」そのものにも言えること。
「在り方」「要素」「結び」
神の手足としての在り方、要素、結び
だから現世(うつしよ)の神は三神で生まれ来る。
火照命、火須勢理命、火遠理命
雷華で放った木花咲耶姫の「火」は、この三神のごとく起こり、最後に雷華を咲かせたということだ。
火が現れ、勢いを増して炎となり、火花が散って移ってゆく。
そうして焼き尽くされて「結ぶ」ものが無くなれば消えてゆく。
そこには「在り方」があり「要素」があり「結び」が必ずある。
結びが無ければ火は点かず、結びが無ければ劔はただの物でしかなくなる。
そして
人も「結び」が無ければ「ただの動物」なのである。
霊の長たる資質を失い「獣」となる。
なるほど
それで【市杵嶋姫】が『伊勢神宮』に居るわけだ。
納得である。
2019年11月
伊勢神宮に赴いたとき、おかげ横丁から牛車に乗った【市杵嶋姫】が現れ、気付けば一緒に牛車に乗っていた。
現実の自分は歩いているが、意識は牛車の中で【市杵嶋姫】の隣りに座っていた。
そしてそのまま本殿へ・・・
何故【市杵嶋姫】が伊勢神宮におられるのか疑問であったが、これでようやく納得できた。
【神】と【人】との『結び』である。
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