【神様はいつも突然に・・・】~雷華でわかった火の洗礼の理 《癒奏術・山桜の章》




神様というのはいつも突然である。

そして、神事というものもいつも突然であり「ぶっつけ本番」なのである。


この5年というもの、散々ぶっつけ本番をしてきたことで慣れたが、これが出来ないと神事は出来ない。

「突然の出来事に対処する」

そのために「身・口・意の三密」が大切であるとずっと言ってきたわけである。


突然の出来事に対して「神意」が現れ、それを即行動に移せなければ、「やり直し」「仕切り直し」などはけっして訪れない。

「チャンスの女神は前髪にしかない」というのはそういうことである。





昨年末にようやく新しい癒奏術の施術が三つ整った。

だが、それが実際に『型』として現れるのは『本番』なのである。


一つ目の【修祓】という施術は、この次元での私自身の仕事が多いこともあり、相対的な流れは私が決めることが出来る。

ただし、最後の一手は【神】のみぞ知る・・・・なのである。


それにくらべて【雷華】と【多々羅】に至っては『本番にならなければわからない』事だらけである。

【修祓】の『水の浄化』は「身の浄化」でもあり、だから私自身が主導権を持つことが出来るが、

【雷華】の『火の浄化』は「霊の浄化」であり、しかも「火」をもって浄化する。


「どうやって?」

「どのように?」


本番まで「?」である。



一応「自分」がやることはわかっている。

神様に頂いた「浄化の火種」を発動し、それをもって浄化することはわかる。

一度「情念のエネルギー」を浄化しているので、その発動のさせ方はよくわかっている。

だが、それを「活動している霊たち」にやるという。


それで霊たちが「どうなるか」は私にはわからない。

が、神様方にはわかっている。

だからそれを「やれ」との仰せ。

どうなるのかわからないが、やるのである。


それは『信頼』から成り立っているから出来るわけである。



そして、実際に『火の浄化』をするとき、彼岸の亡者と共に神様方もそこに居るわけで、当然、私もいるわけで・・・

そこで「炎の大浄化」を行う。




三途の河の「彼岸」の河原で、目の前には受ける方の守護女神と守護霊神、守護霊獣がいて、私の背後に下照姫、高照姫という一行がいて、そしてそのまわりに亡者が徘徊している。


背後から高照姫らしき声で

『やりなさい』


「え?みんないるのに?」


『いいぞ』と下照姫



ーどうして「神様がやらないのか?」と思うかもしれないが、神様は『自分の役』というものがあり、自由に出来ないのである。

それを「やる」ということは「理を曲げる」ことであるからだ。

下照姫も高照姫も【劔の女神】の御子神・・・分け御魂である。

つまり『劔は自ら動けない』からである。

使うものが居て初めて成り立つということだ。ー



下照姫の言葉に背中を押され、クンダリーニのエネルギーを高め圧縮し、「火種」を取り出し劔に込めて一閃すると【咲耶姫】の「意」が流れ込んできて、あたり一面紅蓮の炎に包まれた。

劔を自分で一閃させながら

「あぁ、こんな使い方も出来るのか・・・」

と思う。


劔を振るう私の意思は半分。

あとの半分は【市杵嶋姫(狭依姫)】である。

(この辺の理(ことわり)はまた後で書くことにする。)



河原に広がる炎の中で、亡者たちは昇華されてゆく。

だが、われわれ一行は一切「炎」の影響を受けていない。

皆、涼しい顔をしている。


その様子を見て

「あぁ、なるほど。次元が違うのか。」

と納得した。



聖無動尊の秘密陀羅尼経でも「金剛主菩薩」が「大火炎」を起こして浄化をするが、その時「仏国土」だけが残るという。

それは、「仏国土」以外を浄化しているのではない。

浄化される「次元」とそうでない「次元」があり、そうでない次元が「仏国土」ということである。

そして、「菩薩」が残ると言われるのは、「菩薩の次元」に至っているものが炎に巻かれることなく残る「道理」ということである。




「火の洗礼」で浄化されるのは、「情け」で重くなって上がれないものである。

だから、「情け」が魂にどれだけの比重があるかで、その魂がどれほど残るのか・・・ということになる。

いらないものを握りしめていればいるほど、魂の多くを失うだろう。



神様は「情け」で動くことはないから「容赦ない」ように見えるだろう。

だが、「容赦」そのものが「情け」である。

それを安易に行えば「情け」で濡れることを知っているから行わない。

それが「愛」というものである。




そして「業火の洗礼」を受けた彼岸の河原には、見事な「雷華」が一面に咲いた。

「彼岸花」である。