『蔦草を斬り祓う』 ~高照姫の九十九斬り 《癒奏術・山桜の章》




名前を盗むという事は、木に絡まり枝に絡まり、まるでその木であったかのように振舞う蔦草のこと。

自ら立てども背の低い木であるがゆえ、大木に絡まって伸びてゆく。

分をわきまえていればいいが、自ら大木より大木たらんと欲し、大木よりも枝葉を茂らせ大木を影らせて枯らし行く。




木は自らが立つだけの枝葉を茂らせる。

だが蔦草はいくらでも枝葉を茂らせる。

自ら「立つ」ことのない「情け」の蔦草は際限がない。

つねに「立っているもの」に絡みつく。


自分に備わらぬ『幹』を盗み、その木の一部であるかのようにまとわりついて茂りゆく。





世界を見渡せば、そんなもので溢れている。

どんなに良い言葉で語ろうと、どんなに美しく着飾ろうと、その根源は「悪」である。


寄り添い「共生」するならば、それは「善」となれるものだが、根源に『飢え』があり『渇き』があり、そこから湧き出す『情け』の情動は『灰汁(悪)』を振りまく。




そんな「大木に絡んだ蔦草」を、大木と見まがう人々・・・

蔦草と大樹の見わけもつかぬのか?



枝葉ばかりに気を取られ、どっちがどっちの枝葉かなど見ておらぬ。

言葉ばかりに気を取られ、しっかりと芯のある大樹なのか蔦草なのか・・・見ておらぬ。

「幹」をしっかりと見ておらぬのである。



自らの心に「飢え」と「渇き」があれば、蔦草の枝葉が美しく見える。

美しく見えれば蔦草はそのまま絡まり続けることが出来るからであり、それが蔦草の「情」というもの。

その「情」に絡めとられた心は、蔦草こそ美しい・・・となる。


だが、大樹が無ければそれは地を這う草である。

それが蔦草の「性」


共生の分をわきまえれば善であるが、度を越えればそれは悪となる。

そして、度を越えていく「性」が根源にある。





『日月神示』という大樹に絡んだ蔦草

名(幹)を盗み、大樹の「幹」に絡みついただけの蔦草

自ら「幹」を持たぬ蔦草

「情け」の枝葉(言葉)を茂らせた蔦草


「幹」は「愛」

「枝葉」は「情」


大樹は幹を立てるるため、善悪巡らせる如く枝葉を伸ばす。

善に寄らず悪に寄らず「中行く道」が愛である。

だが蔦草は偏り伸びる。

上へ下へ光へ水へ偏り伸びる。



大樹と蔦草の見わけもつかぬ愚か者

型だけ大樹を模した傀儡の蔦草と共に刈られたいか?





世界を見渡して蔦草を刈り取れ

世界を蔭らせる蔦草を刈り取れ


自らの「情け心」が日の光を遮っているのである。

自らの「情け心」が蔦草をはびこらせているのである。




柳は柳 楠は楠 杉は杉 藤は藤


「大和」という大樹に絡んだ「藤」は、「情け」を絡ませはびこりし。


富士(藤)は晴れたり日本晴れ





ひふみ神示 五十黙示録 五葉之巻 第九帖

平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、天地をよくみよ、人民の申す如き平等も公平もないであろうがな、一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの。人民は選挙と申すマヤクに酔ってゐるぞ、選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ。他に方法がないと定めてかかるから、悪魔に魅入られてゐるから判らんことになるぞ。世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立体の数に入れよ。



地つ巻 第四帖

この神示いくらでも出て来るのざぞ、今の事と先の事と、三千世界、何も彼も分るのざから、よく読みて腹に入れておいて呉れよ、この神示 盗まれぬ様になされよ、神示とりに来る人あるから気つけて置くぞ。この道は中行く道ぞ、左も右りも偏ってはならんぞ、いつも心にてんし様拝みておれば、何もかも楽にゆける様になりてゐるのざぞ、我れが我れがと思うてゐると、鼻ポキリと折れるぞ。