【神人和合ー草薙劔】~神に捧げる三種の宝 《神人一致の理》
神人和合するということは、この世における【神の神器】となることである。
【神の神器】となれるのは 八岐大蛇の尻尾から 取り出されたる「草薙劔」
劔とは?
三女神である。
「刀身」そのものの在り方の【多紀理比売】
「斬る」という劔の要素である「刃」の【多岐都比売】
「結ぶ」という握りのための「柄」が【市杵嶋比売】
つまり、この「三つ」がなければ劔とはならぬのである。
【神人和合】するために【神】に対して自分の『三つの宝』を捧げる。
劔の刀身である【我が身】
斬る要素である【働き】
結びのための【時間】
それが神に捧げる三つの宝である。
神が振るう【劔】となる【我が身】を捧げ、「神が自由に使える」身とならねばならない。
使うべき時に使えない、振るうべき時に振るえない劔は、いざという時に鞘から抜けない刀のようなものであり、使いものにならぬのである。
神は劔を振るうべき時に振るうべくして振るう。
『今、この時、この瞬間』
という時に振るえるか?
まずは【我が身】を捧げきることである。
次に、神は何をもって我が身を劔として振るうのか?
それは、自分がこの世で『為している』行いのことである。
仕事でも芸術でも趣味でも「これが私である」と言えるもの。
けっして『鈍ら(なまくら)』では斬れぬ。
だから、磨いて磨いて「研がれて」いなければ『劔』ではなくただの棒きれである。
『自分が丹精込めて磨いてきたもの』
それが劔にとっての『斬る』という要素である。
そして、神が「我(自分)」という劔を振るう『時間』とは、『神の意のまま』に行動するための『時』である。
自分の思いを「空」にして、我が身に神の意を宿らせて、神の意のまま「自分を使う」こと。
いつ、なんどきであっても「振るうべき時」に振るわれるべくある心。
それが劔の『柄(握り)』であり『結び』である。
我が身
我が働き
我が時
この三つの自分の宝を神に捧げきる
だから自分を『磨く』のである。
外見ばかり整えても「なまくら」では要は為さぬ。
『磨く』とは「働き」を「研ぐ」こと。
簡単に折れず曲がらず、研いで磨いて切れ味鋭く、神の意のまま身・口・意を一致させ行動すること。
それが【神人和合】し『お役を演じる』という【神の演舞】である。
神をその身に降ろして演舞する・・・
それは、演舞する神の手に握られた【劔】こそ【我が身】である。
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