【才】 《癒奏術・惡の章》
癒奏術の施術をしながら「五行」の巡りを常に見ているわけであるが、五行五臓は人それぞれ「強い」部分と「弱い」部分が当然あるわけで、それらの「強弱」や「正負」「清濁」というものを判断しながら施術を行っている。
一般的に「女性は肝が強い」などと言われるが、それはあくまで一般論であり、やはり「人それぞれ」なわけである。
だから「どこから不具合が生じやすいか」という「人それぞれ」があり、「その不具合がどこへどのように巡っていくか」ということもやはり「人それぞれ」である。
さらに時と場合、状況によって同一人でもそれらは変化する。
けっして「決まった機序」は無い。
よって先入観を最初に排除することが最も大切となる。
不具合が全体に広がりゆく「人それぞれ」の流れは、それが掴めれば「逆転」させてゆくことで、「回復の巡り」の流れを生み出せる。
だが、単純に逆転させることは出来ない。
身体とはそんなに都合のいいものではなく、また、巡りの方向性は本来決まっているからである。
例えば、私の場合は『脾』が最初であることが多い。
そして『脾』の不具合が『肝』へ巡り(相嫌・そうぶ)、今度は『肝』から『腎』へと巡る(相乗・そうじょう)。
そこで「放っておくことのできない不具合」となる(かなりしんどい)ので、自分の回復のための重い腰を上げることとなる。
実際、最初の『脾』の不調が現れた段階で対応しておけばいいのだが、「自然回復」される場合も多々あるので、最初はどうしても「見過ごす」わけである。
それが徐々に『肝』へと巡っているのだが、さすが「沈黙の臓器」と言われる肝臓である。
ここが悲鳴を上げる時は、そうとうひどくなっているときであろう。
だが、肝臓が悲鳴を上げる前に必ず「経絡上」に不調を知らせる合図が現れる。
そして『肝』の経絡は『腎』と合流し、やがて『腎』に飛び火してゆく。
経絡が合流するということは、体内作業を「共同」で行っている場があるからであり、そこで不具合を『肝』と『腎』が連携して対処しているわけである。
そして、その対処が追い付かなくなると、不具合の流れは『腎』へと巡って来ることになる。
本来の巡りの順で言えば『腎』から『肝』へと巡るのだが、不具合があるとそこで流れが行き詰って逆流してしまう・・・ような感じのものだろう。
『脾』がやられるという事は『脾経』に付随する「胃」や「小腸」「大腸」そして「咽喉」「口内」という流通経路の「何処が」やられるかという事であり、それは一か所であるか数か所であるか・・・
なかなか判断するのは難しいい。
またその「やられ方」が「陰」であるか「陽」であるか・・・
はたまた「実」であるか「虚」であるか・・・・・
一部一部細かく精査するのは難しい。
それよりも『流れ』が「陰」であるか「陽」であるか、「虚」であるか「実」であるかということを判断するのが一番いいだろう。
そしてそれらは「表面」に現れるわけであり、それを感知するための「施術」をしているということである。
漢方医や鍼灸師さんたちが「症」をとるやり方とは全く違う「独自」のものである。
『感知』の仕方が「独自」なわけである。
だが他者にとってみれば「独自」は「いいかげん」なものでしかないわけである。
一般に広がっている「症」の取り方は「誰でも判断できる」やり方なわけであり、その先には「誰にでも判断できるわけではない」やり方というものが当然あるわけである。
それらは「教える」ことが困難だから一般に普及しないものであって、わかる者にはわかるし伝えることも出来るのである。
これは「才」の差である。
当然、それ(独自)が出来る漢方医の方や鍼灸師の方もいるわけである。
申し訳ないがこれは致し方がないことである。
足が速い人もいれば遅い人もいる。
人それぞれの「才」という「個性」の違いである。
「才」によっての差が出るものを「排除」したものが「一般的な教え」というものである。
つまりは「下のレベルに合わせる」というもの。
だから、「それに縋る者」はその「一般的な教え」に拘り、「独自性」を否定する。
ただそれだけのことである。
だがしかし「治療」として認められているものは、「独自性」ではダメなのもまた事実である。
「独自」であるがゆえに他者が判断できないからである。
判断できないものは善し悪しの判別など出来ないのである。
私が信頼している鍼灸師さんは、だから「保険適用」をしないわけである。
ただ、私は別に治療家ではない。
だから私は「独自」の感覚で知り得るものを優先しているわけであるが、べつに一般的なものを無視してはいない。
だが、一般的なものでは感知し得ないものが多すぎるのである。
だからといって感知したものを「無いもの」とするのは「虚偽」である。
感知し得ない人にとっては感知できないのだから「無いもの」であるが、感知できる者にとっては感知したものすべて「事実」なのである。
だが、感知し得ないものはそれを認めてしまえば自らの存在意義が否定される。
つまりは「才」が無いと認めることとなるわけである。
よって否定する。
この「才」の有る無しは如何にして決まるのか?
それは『どれだけ真摯に向き合った時間があるか』ということである。
その『時間の長さ』が『才能』となる。
では何故『向き合う時間の差』が生まれるのか?
それは『好き嫌い』であったり、その時間を『苦』と思うか『楽』と思うかの違いである。
『好きこそものの上手なれ』
単純な話である。
好きであるから時間をかけることも苦にならず、しんどい時間を通っていても楽しみが先にあることを本能的に知っているから続けられるわけである。
そして、費やした時間はけっして裏切らない。
嫌いな事を苦に思いながらいくら時間を費やしても、成果は多くは無い。
苦痛な時間から逃れるために、安易な決着をつけてしまう事が多くなるからだ。
だが、好きな事を楽しんでやる時は、たとえ途中で遠回りさせられようと、喜んで遠回りの道を進んでゆく。
そうやって、奥へ奥へと、高みへ高みへと進んでゆく。
例えば、同じ「経験一年」という人でも、その一年間どれだけそのことに向き合っていたかということは、とても重要な事である。
同じ一年でも『進んでいる距離は全く違う』わけである。
『真摯に向き合っていた時間の長さ』というものがどれほど尊いことか・・・
同じ一日でも『時間の使い方』は人それぞれ全く違うのである。
如何に上質な経験を多く積むか・・・
それこそが『才』というものの違いであり差である。
たった一年でも大きな差が出る。
それが十年となればもはや雲泥の差となり、その差は埋めることなど出来ないものとなる。
『時間』がどれほど大切なものかということだ。
つまり、私の癒奏術は「たくさんの遠回り」をしてきた末に結実しており、その変化は今なお続いている。
脇道を通り、遠回りをしたから「癒し」を「奏でる」という『和奏』となって形が出来上がっていったわけだ。
様々に遠回りして得た『経験』をその都度組み込んで組み立てられているから、時間が経てば当然その分の変化が現れる。
もっと奥深くへ、もっと高みへ、もっと鋭く、もっと柔らかに・・・・
そうやって過去に様々な高みへ到達した『達人』たちの軌跡を追って、彼らがしたように時に遠回りをし、時に近道をし、自分の道をただ歩き続ける。
そうやって歩み続ける目の前に『神の示し』というものが現れるわけである。
それは進まねばわからず、迷わねばわからず、何より「辿り着こう」という意思が無ければ『示し』は無意味なのである。
そして、示しが示しであるとわかるためには、上質な経験という長い時間が必要なのである。
才は自らの劔
槌打ち焼き入れ研がねば用を為さない。
時間をかければかけるほど、磨きがかかり美しく鋭く強くなる。
才を磨け
磨いて磨いて
折れず曲がらぬところまで鍛錬せよ
一足飛びの魔法など無い
その足で歩んだ分だけ磨かれる
迷い遠回りしたものすべてが『才』となる
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