『癒しの根本』~三位一体の癒しとは? 《癒奏術・山桜の章》
以前にも書いたことがあるが、昔、施術をしていた同僚で『痛みだけを取る』という人がいた。
実際に『痛み』を感じなくなると人は『癒された』と思う。
それをやった本人も実はそう思っていた。
「痛みを取ったのだから・・・」
私もやってみたが、実際「痛み」は取れたりするものである。
だが、身体の状態は何も変わっていないことがわかった。
実際、それは「痛みを忘れさせた」というだけのことであり、本来在るものを「無いかのように」感じさせているだけである。
別の言い方をするなら「薬で忘れさせる」「快楽で忘れさせる」「酒で忘れさせる」と同じようなものでしかない。
『痛み』を感じなくなっても、そもそも『痛み』を発した根本の原因はそのままである。
それが『鎮痛効果』でしかないものと理解しているならそれでいい。
だが人は勘違いする。
『痛み』を取った方も取られた方も勘違いする。
例えば、ぎっくり腰の人に対して『痛み』を取るという事は、確実に『悪化』させる要因となる。
ちゃんと癒されるまでには『時間』が必要なのであるが、人というものはせっかちであるから、痛みが無くなれば日常に戻る。
言い聞かせても忘れる。
まぁ、痛みを何とかしたい気持ちはよくわかる。
すぐにでも解放されたいだろう。
たとえ痛みから解放されても、炎症していた部位が回復するまでには時間がかかる。
だが、痛みが無いことで「忘れて」しまい、炎症を悪化させることとなる。
心の場合も同じで、人は自らの『心の痛み』を感じないように自己暗示する。
忘れようとしたり、治った「こと」にしたり、別のもので埋め合わせて覆ってしまったり。
だが『痛み』の根本がそのままであれば、『痛み』は出続けるわけで、そのため「忘れよう」「無かったことにしよう」「もっと別の楽しいことで忘れよう」というふうにすることが『癖』となり、やがて無意識の行動へと変わってゆく。
それが性格となり言動となり行動となるが、やはり何かの拍子に『痛み』が湧き出す。
長年放置し続けた『痛み』は悪化し、手が付けられなくなることもある。
子供の頃の些細な痛みが、大人になってみれば巨大なシコリになっていたりする。
忘れることも、無かったことにすることも、別の何かで埋め合わせることも出来なくなるほど大きくなったそのシコリは、膿を出すように破裂し暴走する。
前述の「ぎっくり腰」と何ら変わらない。
心の「癒し」も身体と同じで『根本』を癒さなければ意味はなく、必ずといっていいほど「ぶり返す」ことになる。
だから心も同じく『施術』するわけである。
施術されている方は施術されているなど思いもよらないが、実際の癒奏術の施術を行う前に1時間も2時間も、時には3時間も話をするのは「根本を見つけて解いている」作業に外ならない。
全然関係の無い話をしていても、話しの中に「放したい」ものが現れるからである。
本人は無意識であるが、そこに様々な「根源」が隠れている。
指先で不具合を探るのと全く同じ。
身体の正常な流れ(姿)と正常ではない流れの違いがあるように、話の「流れ」に正常ではない「流れ」というものがある。
そういうものを目と耳と肌で感じ取る。
ただ何か別のことで「忘れさせる」「感じなくさせる」ことで痛みを和らげるというのは、酒場や娯楽施設と変わらない。
酒場や娯楽施設であるとしているならいいが、「治癒」しているとしているならば、それは『嘘』である。
結局、心も最後は「自分で」乗り越えなければ治癒することは無い。
身体と同じ。
最後は自分の身体の細胞が治癒させているのであり、心も同じく「自分の心」が治癒させているのである。
だがそのためには「忘れてはいけない」のである。
「無かったこと」にしてもダメ、「別のもので覆う」こともダメ。
そして、治癒にはやはり時間がかかる。
身体と心だけでもそのようなものであるのに、そこに『霊』がかかわってくれば尚ややこしい。
そしてここ(霊)も全く同じで、『根本』に至らねば回復することはない。
ただ祓うだけで一時的に痛みを忘れるようなことをしても、根本がそのままなら必ず「ぶり返す」。
守護という名の霊たちが、『痛み』を患ったまま存在している。
それらの『痛み』に対しても「解き」が必要なのである。
そして「霊」というものは、当然人の心にも身体にも影響を与えている。
つまりは心と身体と霊の「三位」の『絡まり』を解かなければならないわけである。
人の「思い」はこの「三位」に影響している。
心が「忘れよう」とすればそれは身体にも反射し、感覚を「麻痺させよう」とする。
それは霊にも伝わり「忘れる方」へと導く。
霊自体にも「忘れよう」とする『癖』があったりする。
恐らく「生前」の癖なのだろう。
これが「三位」に巡るから、心も身体も霊も「忘れよう」ということとなるわけである。
この「忘れよう」という癖は人にもあり霊にもある。
だから「両方」の『根本』を解かなければならない。
どちらが悪いか?という話ではない。
無限ループに落ち込んでいるなら、どちらが先でもそのループから脱する状況に転化することである。
当然、人の方から先に始める方が効率は良い。
ただ、「忘れよう」とする思いは一つであるが、そのため(忘れるため)に取る手段はたくさんあるわけで、それらが絡まってより複雑に入り組んでいるものである。
それらも身体の不調と全く同じ。
身体に巡りがあるかぎり、不調も「巡る」のである。
逆に「治癒」も巡るのである。
この「巡り」の「流れ」があることを忘れれば、部分に固執して部分だけを見て周りを見落とすこととなる。
結局、この『巡り』を忘れることが『痛みを取る=癒し』という勘違いを生んでいたりする。
そして、「忘れる」という『自分の中の無意識』にある意識の現われでもある。
これらの「絡まり」を解いて、ようやく『神』への道が開ける。
「絡まり」があるままでは、どこに絡みついてしまっているかわからないまま、別のものを「神」とすることとなてしまう。
絡まったまま「引き寄せ」ているものは、気付かないだろうが『借銭』である。
痛みを和らげ吸い上げる様は、ヴァンパイアが快楽と力の対価として「血」と「奉仕」を得ていることと同じ。
「痛み」を取って「悪化」させる様は、まさに悪魔のささやきである。
借銭を済ますために借銭を与えられているということである。
自分が引き寄せているものは、自分の心の中にあるもの。
それは「無意識層」にも及ぶ。
『選ぶ』のは自由である。
だがその先に在る『責任』は必ずやってくる。
『何を』選ぶのか?
それは非常に大切なことだ。
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