【預言】 《癒奏術・惡の章》



元外務官僚で神智学を学んできた佐藤優氏が語っていたが

「キリスト教とは神様を信じることが出来ない人々が信じるための教義」であるというようなことを話していた。



キリスト自身が語っていたものとは『霊性』である。

だが人々はその『霊性』というものが一向にわからない。

【神】という存在が『霊性』の先にあると言われてもわからないのである。

だがそれを「わかりたい」わけである。



【神】の領域である「霊魂」や「精霊」というものを「わかりたい」のに「わかれない」。

どうすれば「わかる」ことが出来るのか・・・


それが「経典」という『型』を学ぶことで理解できるなら・・・

だから彼らは【神】を信じているのではなく、【キリスト】を信じているわけでもなく、それを「わかる」ための「経典」である【聖書】を信じているのだということ。


「霊魂」という『形無いもの』を信じきれないが信じたい。

その手がかり、足掛かりとして「経典」という『型』を信じ切る。

「形」あるものならば信じられるということなのだ。




だが

その『型』を信じ『型』に依存するあまり、『型』から抜け出せないわけである。

そんな「経典」という『型』の中に【預言】という【惡】が仕込まれているのである。

『型』を信じ、『型』に依存し、『型』を遂行することで到達できると「信じている」彼らにとって、【預言】とは如何なるものなのか?


それは「信じ」「依存し」「遂行」すべき事柄なのである。



日本人が考えている「預言」と、キリスト教徒などが考えている「預言」では、その意味するところが全く違う。

「預言」とは「不確定未来の予測」ととらえられる日本人であるが、聖書の信徒はそうではない。

「実践」すべき事柄であり、預言は預言通りに行われることで、自分たちが到達できる未来があるのだと「信じている」彼らである。

つまり聖書の【預言】は【計画書】となるのである。



聖書で示された『型』通りに進まなければ、自らの信じる道が失われる・・・

ということなのである。


だからこそ

聖書の預言は実際に『起こる』のである。




世界人口の約3割がキリスト教信徒である。

その3割は聖書の『預言』に忠実になるであろう。

信仰心があればあるほどに・・・である。


だからこそ、今現在「預言」に忠実に世界の歯車は回っているわけである。

そして、その「預言」が忠実に現れれば現れるほどに彼らは熱狂するであろう。

「審判の日」は近いと。


だが、それでも彼らはキリストが語った『霊性』に辿り着くことは出来ない。

忠実であるほどに遠ざかってゆく。

皮肉なものである。



月読命が残した「バラモン」の教えは、長い年月をかけて朽ちてゆき、バラバラに分散した『型』は、その後勝手に肉付けされて姿を変えて行った。

スメル(シュメール)から分散した『神の型』は【日月の鏡(霊身の鏡)】という二つの鏡のうち【日の鏡】をまず失って【月の鏡】だけとなり、その鏡も欠けて分散していった。

そのかけらがあちこちに散らばった宗教という姿で残ってはいるが、本来の姿からは遠く離れてしまったものとなっている。

ユダヤ教も聖書もそうした一つの「かけら」なのである。

アラーの神も仏教も、そうしたものなのである。



イスラム教の信徒は世界人口の16%といわれている。

そのイスラムの経典にも【預言】は存在する。

そして、彼らもまたキリスト教徒同様『型』を信じ切る人々である。

そんなイスラムの経典と聖書に記された【預言】が重なればどうなるか?

世界のおよそ半分近くの人々が【預言】の遂行者であるとしたら?

全てとは言わないが、世界の流れに関わる人々のうちの『半分』が『経典』に忠実な『遂行者』であるとしたら?・・・



ともあれ世界は流れている。

『預言』という『型』に残されたごとくに。





多くの日本人も『型』にしがみつくようになった。

『型』を欲し、『型』に依存し、『型』に忠誠を誓う。

忠実であればあるほどに、霊性から遠ざかり、神から離れていくというのに・・・

そうして輸入物の『型』に囚われて、持っていたはずの『霊性』を自ら手放していった。

「法則」という「言葉」に囚われ、「型」に囚われてゆき、⦿を〇へと変えて行ったのである。

そして今の日本人は「月の鏡」の「かけら」を追い求める外国人と同じく、わからなくなった『霊性』を追い求めるための『型』に追いすがる。

『型』にすがらなくともすでに『持っている』のに、それを『無い』ものとして『型』にすがりゆく様は、あまりに愚かすぎて笑えない。



蝉の声を聞き分け、花の香りをかぎ分けることの出来るものが、どうして人の心を知るのに「言葉」に頼るのであるか?

愚かにも程がある。

「感覚」という【神】から与えられた特権を唯一その身に受けているはずの日本人が、どうしてわざわざ言葉に依存しなければわからないのであろうか?


ブッダという外国人でさえ「以心伝心」出来たものを、はじめからそれらの「感覚」を備えた日本人がどうして迷うのであるか?


それは「・(真ん中)」を見失っている証拠である。



見失って・・・・

だから「〇(型)」に依存しているのである。

学に依存しているのである。

科学に依存しているのである。





さあ、改心せよ

見失ってはならないものを見失ったことを。


見失ったその時、神の手を離れているのである。


改心して手を伸ばせ

神が居た「・(真ん中)」へ手を伸ばせ。



わかっていながら手を伸ばさぬは、そういうことである。

「〇」に降ったのである。