『思想に矮小化されたブッダの言葉たち』~月夜(左傾化)に誘う仏魔 《癒奏術・惡の章》




ブッダが生涯かけて語った言葉は、自身が体験し、経験した「事実」を「言葉」にして伝えようとしたもの。

ありのままに、あるがままに観た世界を語ったもの。

それは「五感」の先に広がる世界であり、その広がりは無限に感じられるほど、人間にとっては到底把握しきれないほどに広く奥の深い世界である。

そんな「感覚でしか知り得ない」世界を、言葉を尽くして語ったのである。



以心伝心

だから「感覚」を「共鳴」させなければ、言葉の奥に広がる世界は知り得ず、その感覚を「確かに受け取った」となったとき、『以心伝心』が起こり、受け取った者の観る世界は仏陀が観てきた世界の一端を体験し経験することとなる。


大切なのは「経験の共有」である。

言葉はそのための道しるべに過ぎない。



ブッダはバラモンの神が如何なるものであるか・・・ということを観て来たのである。

バラモンとは如何なるものか・・・


ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ

この三柱の神は日本で言うところの

天御中主、高神産霊、神産霊

ということである。



ブッダは「聖典の先」にあるものを追い求めた。

恐らく「聖典」では人は救えないからである。

そうして自らの「体験」で得た「聖典の先にある真実」を人々に伝えたのである。

だが言葉では伝えきれない・・・

いくら言葉を尽くしても、いや、言葉を尽くせば尽くすほど、人は「言葉」に囚われてゆく。

そうして「観る」という「体験」から遠ざかってゆく。


言葉で「道しるべ」を残しても、その「言葉」で人々は道草をくうようになる。

一向に「先へ」進もうとせず、「言葉」を弄んで道草をくって満足する。


「聖典」がそうであったように、教えは「言葉あそび」の道具になるばかりである。



案の定、ブッダの残した言葉(⦿)は「思想」という芯の無い「〇」へと堕ちていった。




五感の先に在る世界を、五感の先を知らない者たちが、左脳の籠の中でどれほど努力を尽くそうと、知り得ることはけっして無い。

「思想」であるとか「唯識論」であるとか、いくら言葉で論じても、そこに救いは見いだせないことを「聖典」というもので知っているからブッダは「体験」へと向かったのである。


そして「体験」の重要性を散々言葉にしてきたわけである。

だからブッダは「道しるべ」をたくさん残しているのである。


だが、後の人々が道しるべに様々な装飾をして弄び、「道しるべ」であるものを「拝むもの」へと変えて行った。

「手段」が「目的」へとすり替わったということである。


そうして様々な「目的地」が生まれ、それが様々な宗教宗派となり、やがて日本に伝わって来た。

そしてそれらが日本の神々を「上塗り」していったのである。



自然に息づく日本の神々はやがて「聖典」の神々のように擬人化され偶像化されて行き、現在に至るというわけである。




天照大御神というとき、擬人化された女神を思い、そうして人は祈りを捧げる。

「アマテラス」という「良心」を司る神であり、「お天道様」とただただ感じていた昔の人は、「アマテラス」という神の光を心に宿していると言うのに・・・・


素戔嗚神というとき、荒々しい男神を思い、畏れ敬いながら祈りを捧げる。

素戔嗚という「感受」を司る神とは程遠い姿を想像している。



良心という「・(柱)」があることで、感受性は良心を軸に発動する。

だが、妬みなどが「・(柱)」となれば、その感受性は荒れ狂う。


素戔嗚が荒れ狂ったのは、真ん中の柱を「恨み、妬み」としたからであり、そこから生まれたのが八岐大蛇なのである。


素戔嗚は恨みや妬みを持ったりしない。

「感受」するのみである。

そして、「感受」するから「示現」する。




一霊四魂


真ん中の大黒柱と四方の四つの柱

五柱の神が本来の日本の神の「柱」の在り方である。


その五柱の中の一柱の神に穢れが生じ、それを感受した素戔嗚という「示現」の力が発動されてしまった・・・・

それが八岐大蛇の大禍


だからその起こってしまった「禍」を鎮めたのも素戔嗚ということである。



「思い」の中には喜び、悲しみ、怒り、恐れの感気(かんき)がある。

それらは「変化」に則して起こる。

その起こった「感気」を「感受」する「情」が素戔嗚という「瑞(水)の御魂」であり、そうして「感情」として沸き立ち「行動」という「事」が示現する。


喜び、悲しみ、怒り、恐れの感気(かんき)のバランスが保たれていれば、思いは「良心」であり続ける。

だが、ひとつの感気に執着が発生しバランスを崩せば、思いは荒れて巡りは軌道をはずれてゆく。

そうして荒れた思いが示現されることとなる。



それが神の姿である。




真ん中に「内宮」があり、東西南北に四つの「宮」がある。

東宮は「怒り」

南宮は「喜び」

西宮は「悲しみ」

北宮は「恐れ」


アマテル神が瀬織津姫を南宮から迎え入れたのは「喜び」であるものを「真ん中」に据えたということである。


その時、巡りにズレが生じ、「北宮(恐れ)」の女神に淀みが生じた。

それを感受した素戔嗚が、「恐れ」を示現してしまった・・・・

その「恐れ」の示現が四方八方に広がり「八岐大蛇」となるわけである。



今の人々を見て見よ。

常に「恐れ」を抱えている。

「恐れ」から逃げることで「喜び」へと向かおうとしている。

だが、逃げてもそれは無くなりはしない。

在るべくして在るものなのであるから。



人々は「八岐大蛇」が生み出した禍の中に未だにいるのである。



恐れは無くてはならない「感気」である。

だが、それを注視し過ぎ、拡大して見ているわけで、だから恐れに支配される。




神話(記紀以前のもの)を見てみればよくわかる。

北宮の女神の「恐れ」を西宮の「悲しみ」が受け止めて鎮めた。

「悲しみ」もまた『無くてはならない感気』である。

そして、西宮の女神が南宮へ向かうことで、悲しみを「喜び」で鎮めたのである。




これらの感受を「言葉」にするのが『月読命』である。

そうして出来上がったのが「バラモンの聖典」であったはずであるが、「感受」しきれないために「言葉」に依存し、ただただ言葉だけのものと風化していったのであろう。


だからブッダはわざわざ「体験」して自ら「観る」道を進み、そうして得た体験を言葉を尽くして語ったのであるが、やはり人々は言葉に寄り道し「体験」へと進まない。

少しばかりの人が「体験」へと進んではいたものの、「言葉遊び」のほうが簡単でわかりやすいため、そちらばかりが広がっていくこととなった。



そんな「言葉」や「偶像」ばかりの聖典が日本の神々に覆いかぶさり、現在に至っているわけである。




感受性

それが『素戔嗚神』という「大海原を白示す」神の本質である。

そして、それを「排除」して巡っている今の世界は「理(ことわり)」から完全に外れている「外道」の道である。


恐れは「悪」ではない。

悲しみも「悪」ではない。

喜びだけが「善」ではない。

喜び、悲しみ、怒り、恐れの感気(かんき)がバランスよく息づいている状態が「最善」なのである。

それを「喜び」一点に向かえばどうなるか。

すでに答えは示されている。

だから世界は今「禍(わざわい)」に満ちているのである。




五十黙示録 碧玉之巻 第十帖

岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。

その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。

次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。

次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。

神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。

仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。