天地の型 ~螺旋に続く陰陽和合 《癒奏術・惡の章》
日本人のDNAに刻まれた精神性の根幹は、外国人のそれとは異なるものである。
それをわかりやすく説明するためには【楠木正成公】の『非理法権天』がわかりやすい。
非理法権天とは
「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」
という『順序』を示したものである。
これは日本人のDNAに深く刻まれたものであり、それは『縄文』と呼ばれる時代以前から連綿と受け継がれる精神性の根幹である。
ここでの「天」は「神々」ということでもある。
だが、実際には「地の下」に堕ちた神々もあるため「天」と言った方が妥当である。
「神々」などという時、霊性の奇跡的なものを起こす何がしかを「神」としてしまうだろうが、「天」と言ってしまえばそこには「邪(よこしま)」な霊性は介入されない。
「お天道様が見ている」
と言う時、精神性の中の「良心」が反応するわけで、その反応する「精神」を「お天道様」と言い、そしてその精神性を司る神を『天照大御神』と言う。
てるてる坊主に雨曇りの空を晴れやかにする願いを込めるように、天照大御神に心の雨曇りを晴れやかにする願いを込める。
それが日本人の『祈り』でもある。
それゆえ「天」を最上とし、権力は絶対的に「天の下」に位置せしめているのである。
そこから生まれる精神性が日本人の根幹であると言える。
それは縄文の昔から行われてきた統治の在り方である。
日の皇女(ひのみこ)たるものが天から受け取る「言」が絶対的な基軸となり、その基軸をいかに実行してゆくかという「事」へと結んでゆく。
それが基本であり絶対的な日本人の『型』であった。
日の皇女が受け取る神からの意思という縦糸を
大物主(大国主)という統治を実施する者が横糸と結ぶ
これが「権は天に勝たず」の基本である日本人の『天地の型』である。
それは日本が戦乱へと向かい始め、源氏と平氏が自警団から物部(武士・もののふ)へと変わっていった頃にも連綿と息づいていた。
ちょうどそのころ中国(唐国)より『孫子』が渡って来たころであり、中国で戦乱に次ぐ戦乱から生まれた書物である。
だがそれは「権」を頂点にして書かれたものであり、それは日本にはそぐわないとしてしばらくは秘されていたのであるが、それを統治に使うために源義家(八幡太郎義家)が譲り受けるのだが、その時に「闘戦経」という『天』をあくまで上とする書もしたためて渡し、しっかりと教授したわけである。
『天』と『権』という縦糸と横糸の結びの『天地の型』は、だから日本人の精神の真ん中に息づいているわけである。
そしてそれは江戸時代の太平の世でもしっかりと息づいていた。
「武士道とは死ぬことと見付けたり」
これは『忠義』の究極であり根幹であるもの。
心の中心に「義」を置く。
その「義」とは「主(あるじ)」という「お上(おかみ)」に対しての義であり、その「主(あるじ)」は「将軍」という更なる「お上」に対して「忠義」を示し、「将軍」は「天皇」という更なる「お上」に対して「忠義」を示し、「天皇」は『神』に対して「忠義」を示す。
天皇という「縦糸」と、将軍という「横糸」を結ぶ『天地の型』
その型は現代に至るまで連綿と続いているわけである。
だが、第二次大戦後、天皇という『縦糸』の結びを『解かれて』しまったわけである。
結びの無い縦糸は横糸から分離され、その横糸に「別の糸」を結び付けられた。
「天皇」という「縦糸」はある。
だが肝心の『結び』が無い。
いや、結びはあるのだがその結びは以前より緩くなっている。
そして別の糸(意図)が、より強固に結ばれてきているわけである。
その「別の糸」は『天』に非ず
外国の宗教は常に「権の下」に位置してきた。
戦乱が絶えない国々で、より強固な権勢の国が弱者に対して「宗教」を押し付け、弱小国は「改宗」することで国を維持し、または権力を維持してきた。
神を崇めるはずの宗教は常に「権力の道具」とされてきたわけである。
それでも抵抗すれば「魔女狩り」が行われ、徹底的に「神」を染め変えて行く行為が権力の下で行われてきた歴史がある。
さらに
天を権力の下に置いたのと同様に「法」も「理」の下に置くことで、より「権」を強固にしているわけである。
「法」は常に「権」に都合の良い「理屈」で曲げられてゆく。
だから外国では「非法理天権」という順序となる。
いや・・・
昨今では「神」でさえ「理屈」でいくらでも捻じ曲げられている。
「理屈」が幅を利かせ、本来在るべき「天の道」を右に左に都合よく曲げられて、心の中の「良心」さえも「理屈」で捻じ曲げられてゆく。
捻じ曲げられているほうは曲げられていることに気付かず、「理屈」に引っ張られて横道に逸れてゆく。
全ては「権」が「理」を用いて「天」も「法」も思い通りにして「非」を決定してゆく。
「非法天理権」
そんな世界が現れているわけであり、そしてとうとう日本もそのようになってきているわけである。
ーーー
ひふみ神示 補巻 月光の巻 五十二帖
そなたはつまらんことにいつも心を残すから つまらんことが出てくるのであるぞ。心を残すと云うことは、霊界とのつながりがあることぞ。つまらん霊界にいつ迄くっついてゐるのぢゃ。何ごとも清めて下されよ。清めるとは和すことであるぞ。同じもの同士では和ではない。違ったものが和すことによって新しきものを生むのであるぞ。奇数と偶数を合せて、新しき奇数を生み出すのであるぞ。それがまことの和であり清めであるぞ。善は悪と、陰は陽と和すことぢゃ。和すには同じあり方で、例へば五と五との立場で和すのであるが、位に於ては陽が中心であり、陰が外でなければならん。天が主であり地が従でなければならん。男が上で女が下ぢゃ、これが和の正しきあり方ぞ。さかさまならんぞ。これを公平と申すぞ。口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。心と行が伴はねばならん。判りきったこの道理が行はれないのは、そなたをとり巻く霊の世界に幽界の力が強いからぢゃ。そなたの心の大半を幽界的なもので占めてゐるからぞ。己自身のいくさ まだまだと申してあろうがな。このいくさ中々ぢゃが、正しく和して早う弥栄結構ぞ。そなたのもつ悪いくせを治して下されよ。そのくせ治すことが御神業ぞ。自分で世界を建直すような大きこと申して御座るが、そなたのくせを治すことが最も大切な御用でないか。これに気がつかねば落第ぞ。おそれてはならん。おそれ生むからぞ。喜べ、喜べ、喜べばよろこび生むぞ。喜びは神ぢゃ。神様御自身も刻々弥栄して御座るぞ。故にこそ生長なされるのぢゃ。人間も同様でなくてはならん。昨日の自分であってはならん。今の自分ぞ。中今のわれに生きねばならん。われにどんな力があったとて、我を出してはならんぞ。我を出すと力なくなるぞ。我を、大き我に昇華させよ。大我にとけ入らねばならん。大我にとけ入ったとて、小我がなくなるのではないぞ。人おろがめよ。物おろがめよ。おろがむと自分の喜びとなり、拝まれたものも喜びとなるぞ。うれしうれしとはそのことぞ。
ーーー
ここで『男が上で女が下ぢゃ、これが和の正しきあり方ぞ。』と語られているが、その真意は
男は曲がらぬが折れるもの
つまりは「曲がらないから折れる」わけである。
そして、女は折れぬが曲がるもの
つまりは「曲がるから折れない」わけである。
上下とは天地であり、縦横ということである。
縦糸は盤石にしてけっして曲がってはいけないもの。
横糸は柔軟にしてけっして折れてはいけないもの。
ということである。
だから『男が上で女が下ぢゃ』となる。
これが逆だとどうなるか?
縦糸は曲がり横糸はすぐに折れて切れるため、出来た織物はすぐにボロボロとなる。
これは『神の理(ことわり)』も同じ。
厳の御魂はけっして曲がらぬ絶対の芯であり、瑞の御魂は柔軟に曲がる。
だから女神である【天照大御神】は厳しく、男神である【素戔嗚神】は優しい。
優しいからこそ「八岐大蛇の大禍」が起きてしまったわけであるが・・・
そんな縦糸と横糸の役割を明確に現わしているのである。
「男女逆ではないか?」
と思うかもしれないが、【結び】の理(ことわり)は常に『陰陽和合』である。
縦の【結び】も陰陽和合であるから、男の上には女神が居り、女の上には男神が居る。
『折れず曲がらぬ』生命は【陰陽和合】した型からしか生まれない。
ー『そなたはつまらんことにいつも心を残すから つまらんことが出てくるのであるぞ。心を残すと云うことは、霊界とのつながりがあることぞ。つまらん霊界にいつ迄くっついてゐるのぢゃ。何ごとも清めて下されよ。清めるとは和すことであるぞ。同じもの同士では和ではない。違ったものが和すことによって新しきものを生むのであるぞ。奇数と偶数を合せて、新しき奇数を生み出すのであるぞ。それがまことの和であり清めであるぞ。善は悪と、陰は陽と和すことぢゃ。』ー
魂魄(こんぱく)
それは「霊の魂」と「身体の魂」というものである。
そして、「霊の魂」は神に由来する。
男なら女神、女なら男神。
だが、「身体の魂」である『魄(ぱく)』は「霊の魂」とは「逆」の性質であり、男の『魄』は「柔軟」で、女の『魄』は曲がらない。
『魄』は「情」という「水(瑞)」であるといえばわかりやすいか。
男よりも女の方が情に厚いとも言えるし、強情であるとも言える。
男の方が薄情になれるのはそういうところから来るものである。
薄情になれる方が柔軟性を持っているわけで、強情ならば「譲らない」という「曲がらない」が起きるわけである。
つまり、『情』に於いては女は「曲がらぬが折れる」のであり、男は「折れぬが曲がる」のである。
【神様】も同じ
女神は強情な・・・と思えるくらい真っすぐであり、男神が「優しい」と見えるのは「薄情」であるからとも言える。
だから【神】も「陰陽和合」していなければならず、夫婦神が一対とならねば「火水(神)」とはなれないのである。
だから『魂』の【結び】は「逆」でなければならない。
陰には陽
陽には陰
これが【陰陽和合】の理合である。
「天照大御神」という女神の夫神には「アマテル神」がいて横の【結び】の「陰陽和合」をしているわけであり、縦の「陰陽和合」として「素戔嗚神」と「陰陽和合」しているのである。
その「素戔嗚神」は「アマテル神」の「弟」・・・・つまりは「アマテル神」の『次元違いの御魂』である。
そして妻神である「瀬織津姫(天照大御神)」の「妹」である「稚姫」もまた『次元違いの御魂』であり、だから「本来結ぶべき相手」を『殺してしまった』というところから世界は大禍に包まれたわけである。
それを「天照大御神と素戔嗚神の【誓約】」で生まれた御子神である【天穂日(瓊瓊杵尊)】と、瀬織津姫が「死返し(まかるがえし)」で『生まれ直した』稚姫である【木花咲耶姫】と【結び】を行うことで「大禍」を鎮めたわけである。
だがまだ『ズレ』が生じているわけであり、だから「鸕鶿草葺不合命(ウガヤフキアワセズ命」という「宇賀の御魂の葺き合い(結び)が出来ていませんよ」という「ズレ」を持ったまま現在に至っている。
だが実際は【伊豆能売神】の段(天照大御神と素戔嗚神の誓約で生まれた御子神)で収束しているのだが、その下層の次元でまだ「歪み」があり、それゆえ天界が混乱しているわけで、その示現が現界にも起こっているわけである。
では何故そんな「歪み」が生まれているのか?
それは「死返し(まかるがえし)」で生まれ直したもう一人の女神【岩長姫】である。
木花咲耶姫の「姉神」とされているが、咲耶姫の「縦の半身」である。
つまりは咲耶姫の「上の次元」の御魂である。
「八岐大蛇」の「業」の部分であり、その「業」の「禊ぎによる浄化」に長い年月がかかってしまったのだろう。
だがその浄化も終わっている。
ゆえに今は「歪み」や「捻じれ」が元に戻るための時間である。
だから【陰陽和合】は重要な事なのである。
そして【陰陽和合】が出来ていなければ当然【神人一致】も出来ない。
その【陰陽和合】をするには『非理法権天』の順が正しくなければ「在るべくして在る道理」から外れ、陰陽の調和は乱れることとなる。
天と調和するには陰陽の調和無くして成らないのであり、天と調和しなければ『非理法権天』の順序はズレて現在のように『非法天理権』へと流れてゆく。
自分が何を「最上」としているのか?
多くの人は「権」に対して自らの「天」が負けているのではないか?
ー『口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。心と行が伴はねばならん。判りきったこの道理が行はれないのは、そなたをとり巻く霊の世界に幽界の力が強いからぢゃ。そなたの心の大半を幽界的なもので占めてゐるからぞ。己自身のいくさ まだまだと申してあろうがな。このいくさ中々ぢゃが、正しく和して早う弥栄結構ぞ。』ー
神と学の戦は『非理法権天』の順を正しく整える戦である。
それは「火」と「水」の順と結びを整える戦である。
理屈で神を捻じ曲げているということは、幽界に感化される霊懸かりなのである。
天界と現界の間にある幽界の霊に感化され、理屈で天道を捻じ曲げているのである。
その大元となるのが「自分」を捻じ曲げることを「やめること」である。
自分をありのまま受け入れる
男は男 女は女
そんな単純な「在り方」から受け入れなければならない。
それすら忘れてしまっているのだから・・・・
折れず曲がらぬ草薙剣は陰陽和合の先にある。
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