『龍とドラゴン』~西洋人の霊的思考限界 《癒奏術・惡の章》
どうしても『霊性』というものが理解出来ず、よって『霊界』などというものなど到底理解不能な西洋人にとって、さらにその奥に存在する【神】を理解するのは難しい。
その顕著な現われが『ドラゴン』である。
実際の『龍』は羽根など生えておらず、それでも自由に空を駆け回っている。
三次元に在りながら三次元の束縛を受けず、四次元存在に近いものであるから「羽根」など必要としないわけである。
更に言うならば、ひとつの次元だけに留まらず「次元を跨ぐ」存在であるからこその「姿」なのである。
だが西洋人にとってみれば、「空を駆けるのならば絶対に羽根が必要」となるわけで、三次元を超えた思考に対しては絶対的と言ってもいいくらい拒否反応を示す。
あくまでも「三次元の理(ことわり)」を『超えられない』のである。
だから天使にも羽根が生えている。
だが日本の天女に羽根は無い。
これが日本人と西洋人の「絶対的」な「思考差異」であり、言うなれば「西洋人の思考限界」がそこにある。
だから、彼らが【神】を語る時、必ずドラゴンの「羽根」となるものが付随する。
それが『契約』というもの。
そして『戒律』というもの。
ドラゴンの翼のように、これが【神】の『両翼』となる。
つまりは【神】に付帯させられた三次元的「翼」なのである。
この「翼」が無ければ彼らは【神】など「信じられない」わけである。
そして【悪魔】は『契約』という「片翼」だけの存在であるから【悪魔】として認識し信じ得るのである。
この「三次元的理(ことわり)」という『どうしても超えられない壁』がある。
だから【神】というものの認識は日本人と西洋人では全く違うものとなる。
龍とドラゴンのように・・・・・
言葉では【神(God)】とは言っても、頭の中の認識は「龍とドラゴン」ほどの違いがあるということを念頭に置いておかなければならない。
モーゼの十戒も聖書も様々な経典も、そして「宗教」というものも同じく「ドラゴンの翼」なのである。
元来、日本人に「宗教」などというものは必要ないのである。
それは「生そのものが神と共に在る」という根底があるからで、それが本来の「祭り(祀り)」なのである。
神社に参拝することは「宗教」ではなく、ましてや「戒律」や「教え」でもない。
そして「神と契約」などという概念ははなから無く、ただ「結び」という概念が根っこに染み付いている。
そして、そこにあるものは「喜び」と「感謝」である。
西洋のように「懺悔」や「契約」などというものは一切ない。
神とは「人と共に在る」ことが『当たり前』なのであり、だからわざわざ「契約」など必要なく、「戒律」など無くとも心の中にすでに【神】が居り、それが心の疚しさを咎めるのである。
だが・・・
現代の日本人の【神】には西洋人のGodのように「翼」が生え始めている。
恐らく『神仏習合』したあたりから、小さな「翼」が生えだしたのだろう。
そのころから『型』という「翼」が生えだしている。
元来、神が降りてきて様々な「型」が現れていたのだが、いつからか「型」が先に在るようになり、やがて型が固定されるに至った。
そして「型」を依り代として【神】を出し始めた。
これが『天地逆さまの始まり』である。
【神】が現れ出たものが「型」として成るのが本来の順序である。
だが今は「型」の中に【神】が現れる・・・【神】を見出す・・・というふうにしている。
まるで西洋人が「契約」や「戒律」といった「型」の中に【神】を見出そうとしている如くなのである。
さらに昨今では【神】は『宇宙人』である・・・という気持ちの悪い「翼」を生やし始めてもいるわけである。
「型」を依り代にするということは、すでに『思考限界』の壁に突き当たっているわけである。
そんな『思考限界』は如何にして起こるのか?
それは『左脳に寄り過ぎた』からに他ならない。
いや、「左脳が主で右脳が従」となったのであろう。
これが『天地逆さま』の最たる要因である。
本来は『右脳が主で左脳が従』である。
だからわざわざ『天照大御神は左目』『月読命は右目』と語られているのに・・・
月は日の光を写すもの
絶対的な主従がそこにある。
その主従が逆転している。
神や神霊を感知する「六感」は「五感の先」にあるものであり、それを写し取れるのは「右脳」である。
「左脳」で神を知ることなど出来ないのである。
「右脳」が写し出したものを「読み取る」のが「左脳」であり、それ以上のことは出来ない。
だから左脳には「月読命」という名が与えられているわけである。
そして右脳は「天を写す」から「天照(あまてらす)」という名が与えられているのである。
例えば、霊体である「エーテル」と呼ばれるものを感知するのは「肌感覚」であり、または「視覚」であり「聴覚」であり「嗅覚」でもある。
これら「研ぎ澄まされた五感」が無ければ、その先の世界を感知し得ることは出来ない。
そして日本語には様々な言葉があり、世界一単語の多い国である。
それは「感覚的な言葉」が満ち溢れているからでもある。
それはつまり「日の光を写した月読命」ということである。
微細で繊細な色や香りや音や肌触り・・・
そんな言葉がたくさんある。
だからこそ、その先にある【神】にまで手が届くのである。
だが左脳が「主」であればけっして届かない。
五感の先の六感も開くことが出来ない。
どんなに多くの言葉を詰め込んでも、けっして届かないのである。
どんなに厳密に言葉て理解し推定しようとも、けっして「翼」を外せないのである。
日本の神々や天人、天女に「翼」など無い。
必要ないのである。
であるのに『型』という「翼」を必要とするのは、すでに心が、身体が、魂が【神】を見失っているからである。
【神】が現わす『型』はあくまでも「道しるべ」であり「目当て」である。
「戒律」のような柵を設けることも無く、「契約」のような縛りを設けることも無い。
ただ「道しるべ」となるものを立ててくれるのが【神】が現わす『型』である。
霊主体従を獲得したいのであれば、まずは「右主左従」を身に着けることである。
それが出来るのもあと一年あまり・・・・
来年の七夕までであろう。
それまでに「鏡」を磨いて磨いてきれいに曇りを晴らすことである。
左脳傾倒の現代で曇った右脳を、きれいに磨いて「日の光」を写し「天照御鏡」となれるまで磨くことである。
眼耳鼻舌身(色声香味蝕)の五感の先に「意(理)」の六感が現れるまで磨くことである。
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