『ポリコレという魔女狩り思想』~歪んだ学の世 《癒奏術・高天ケ原》
非常にキリスト教的な思想である「ポリコレ(ポリティカルコレクトネス)」というものは、それを推進する人々がまるで中世の「異端審問官」であるかのごとく「偽善」を振りかざして高圧的態度で語る姿は、見ていて気持ちが悪くなってくる。
神を信じているのではなく「教義」である「聖書」が絶対的権威であるキリスト教そのものの思想のように、「善」であると定義した「ポリコレ」という「教義」を絶対とするその様は、かつて中世において「魔女狩り」という「大罪」まで引き起こした「異端審問官」そのものである。
「神」が『わからない』から「教義」という『型』を決め、それに『沿う』ことで「神」に殉じている・・・とするように、「愛」がわからぬ者たちが「教義」という『型』をもって『愛の実践者』であるという・・・・
甚だしい「勘違い」を正当化しているわけである。
龍に翼が付くように、天使に翼が付くように、悪魔にも翼が付くように・・・・
そのものの「本質」に辿り着けない思考が生み出した「翼」が「教義」というものである。
「翼」を付随しなければ「理解」出来ず「納得」出来ない・・・
それと同じように「教義」が無ければ「理解」出来ず「納得」出来ないわけである。
本来「翼」など無いものに、「納得」するために付随させた「翼」のため、本来の「在るべき姿」までが変質する。
「龍」は「翼の生えたただの恐竜」と化し、天使は「翼の生えたただの人」と化してゆく。
「悪魔」には蝙蝠のような羽根を付け、「黒」を基調とすることでイメージを固定化させ、本来の姿から歪んだ姿へと変質させている。
ゆえに「教義」という「翼」があることによって、本来の姿とは異質の「神」が創造されているのである。
実際、「神」は『わからないもの』であるから、その姿はどうでもよいのである。
「翼」さえしっかりと『付いているなら』それが「神」であると・・・・・
それがキリスト教の本質であろう。
「ポリコレ」というものも全く同じ「思想」の上に成り立っている。
「愛」であるものに、「平等」であるものに「翼」が付随することで本質が歪んでしまっているということ。
「教え」は「教義」という「言葉」に変わると、今度は「言葉」の『解釈』があれこれと付随してきて、さらに「異質」なものへと変化してゆく。
そうして生まれる「変化」は、それを「解釈」する「人の欲望」が混ざりこんでいるため、その「欲望」の姿へと変貌してゆくこととなる。
それは何もキリスト教だけの問題ではなく、仏教も婆羅門もイスラムも、そして「神道」さえ「変貌」を遂げている。
『教え』というものを重視し過ぎる現代の「学の世」は、歪んだ上にさらに建て増しを続けてきたため「歪(いびつ)」なほどの歪みを持っている。
『本質』が何であるかなどということよりも「教義」に依存する「学の世」は、おかしな「翼」の生えた「神々」が好き勝手に「神」としてふんぞり返る。
そうやって生まれた様々な『偶像』が、勢力を争っている姿が人世に現れ、龍ならぬ龍、天使ならぬ天使、神ならぬ神が「人の頭」で想像され創造されゆく。
本質を捻じ曲げる「蛇の知恵」とはまさに「教義」という「教え」の中で、言葉の「解釈」を捻じ曲げてゆくことで「神」を殺し行く。
まさに「人の中から神を狩り出す」ように、「学」という「教え」は「捻じ曲げる知恵」を与える。
そして、「学」に囚われ「教え」に囚われ「教義」という『型』に囚われた人々は、もはや『型』という「支え」無くしては立つことも出来ない「蔦草」と成り果てた。
沙羅双樹も菩提樹も、生命の樹も「蔦草」にまみれてもはや「幹」が何処に在るかさえわからないほどである。
それでも人は「蔦草」が『型』であると信じて「蔦草」を追い、そうして「本質」に辿り着かんとしているが、蔦草はあちこちにはびこり、幹を追いかけているはずが、気付けば地面に戻っていたりする。
目先に囚われ追いかけて、登っているのか降っているのかさえわからない。
それでもまだ「教義」に依存する。
それはもはや自身が「蔦草」であるということ。
差別と区別の違いもわからない「ポリコレ」というものは、本質のわからなくなった教義そのものである。
そして、それが「異端審問」などというものに発展し、そうして「魔女狩り」が行われ、「解釈」という歪みを「知恵」としている者らが引き起こす「大罪」の現われである。
区別を差別とし、差別を区別とする解釈の歪みを生む「屁理屈」という名の知恵。
「愛」をもって「教義」という『型』を決めたから『型』は「愛」であるという「屁理屈」。
『型』は「翼」であり「神」ではなく「龍」でもなく「天使」でもないただの「翼」である。
何のことはない。
人々は「翼」を「神」と崇めているのである。
それが「学の世」であり「教えの世」の姿である。
そして・・・・
魔女狩りの一番最初の被害者は「イエス・キリスト」その人である。
そしてトップの画像の「ジャンヌダルク」も同じく魔女狩りの犠牲者である。
「神」を見ぬ人々の「蛇の知恵」の行き着く先である。
ポリコレ
ひふみ神示 黒鉄の巻
第十帖
むつかしいこと申さずに、ひらたう解けと申してあらうが。ミタマは上中下三段、三段にわけて説いて聞かせねば仕組おくれるぞ。はじめは神様がして下さるが、向上すると自分でせねばならん。いつ迄も神を使ってゐてはならんぞ。理解は真から、意志は善からであるが、今迄はそれでよいと説いて来たが、愈々イワトびらきとなったのであるから、二(ツキ)の鍵わたすから、よく心得よ。今迄の教ではマボロシぞ。力ないぞ。まつり合せて意志と働き、入れて理解出来るのであるぞ。まつりまつりと申してあらう。上のまつりぞ。マボロシとは人間智慧のこと。理屈のことぢゃ。理屈とは悪の学のことぢゃ。理でなければならぬ。
第十一帖
学出すから、我出すから行き詰るのぞ。生れ赤児と申すのは学も我も出さん水晶のことぞ。ねり直して澄んだ水晶結構。親の心判ったら手伝ひせねばならん。云はれんさきにするものぢゃと申してあらうが。いつ迄も小便かけてゐてはならんぞ。人間は罪の子でないぞ。喜びの子ぞ。神の子ぞ。神の子なればこそ悔い改めねばならんぞ。真なき愛の道、悲しみの喜びからも生れることあるぞ。それは罪の子と申すのであるぞ。
第十三帖
理屈で進んで行くと、しまひには共喰から、われとわれを喰ふことになるぞ。神様を真剣に求めれば、神様は人間様を真剣に導いて下さるぞ。結構に導いて下さるぞ。悪を意志して善を理解すること許さんぞ。悪を意志して善を理解せんとするのが悪ぞ。善を意志して悪を理解せんとするのも悪ぞ。悪を意志して悪を理解する処に、善としての悪の用(はたらき)うまれるのざ。幽界も亦(また)神のしろしめす一面のこと。
第十四帖
悪の総大将は奥にかくれて御座るのぞ。一の大将と二の大将とが大喧嘩すると見せかけて、世界をワヤにする仕組、もう九分通り出来てゐるのぢゃ。【真の理解に入ると宗教に囚はれなくなるぞ。形式に囚はれなくなるぞ】。真の理解に入らねば、真の善も、真の信も、真の悪も、真の偽りも判らんのぢゃ。今にイワトひらいてあきらかになったら、宗教いらんぞ。政治いらんぞ。喜びの歌高らかにナルトの仕組、二二(フジ)にうつるぞ。
第十五帖
人間を幸福にするのは心の向け方一つであるぞ。人間はいつも善と悪との中にゐるのであるから、善のみと云ふこともなく悪のみと云ふこともない。内が神に居りて外が人に和し、内が霊に居り外が体に和せば、それでよいのぢゃ。其処に喜び生れるのぢゃ。神から出た教なら、他の教とも協力して共に進まねばならん。教派や教義に囚はれるは邪の教。豚に真珠となるなよ。天国の意志は人間の喜びの中に入り、幽界の意志は悲しみの中に入る。
第十六帖
いよいよ表の守護と相成ったぞ。表の守護とは、よいものもなく悪いものもなく、只喜びのみの守護となることぢゃ。悪いもの悪くなるのは表の守護でないぞ。心得なされよ。一つの魂を得ることは一つの世界を得ることぢゃ。人間は一人でないぞ。神は善人の中にも悪人の中にも呼吸してゐるぞ。悪なくては生きて行けん。悪は悪でないぞ。外道の悪が悪であるぞ。
第二十二帖
顔まで変ってゐるのに未だ気づかんのか。病気に皆がなってゐるのに未だ気づかんのか。何事も早い改心結構。自分で自分の心の中は中々につかめんものであらうがな。その中に又心あり、又中に心があるのぢゃ。心は神界ぞ。霊界や神界のものを肉体の自分で掴まうとしても中々ぢゃ。うなぎつかみと申してあらうが。ヌラリクラリと掴んだ筈が掴んでないぞえ。掴むには身と魂と一つに和せねばならん。・から愛と智とが生れると申してあらうが。智と愛との和合によって・が又生れるのぢゃ。・は喜びであるぞ。・の別の・であるぞ。その・から又別の愛と智が生れ、又別の・が喜びとなり、その喜びの愛と智の喜びと結んで、又喜びの・生れるのぢゃ。神は額から入って顔全体に至り、全身に及ぶものであるぞ。
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