【コミュ障】について思うこと ~自分を生きるということ




つらつら思うに、コミュ障というコミュニケーションに少々難があると言われている人がいるが、それ以外のほとんどの人は自分で気付いていないだけの「コミュ障」なのではないかと思う。


思うに一般的に「コミュ障」と言われている人は『嘘がつけない』という純粋さがあるように見える。

他人に嘘がつけないと言うより、自分自身に嘘がつけないのだ。


世の中の「コミュニケーション」は『嘘偽り』で成り立っている。

腹の中はどうであれ表面を取り繕うことを旨としている。

さらには取り繕った表面に自分自身を合わせていくのである。

それは「自分を曲げる」ということ。

それが出来ないゆえに「コミュ障」となる人も多い。


結局のところ自分を「何者か」に仕立てて演じるのが「コミュニケーション」というものに「常識」が落ち着いてしまっているのだ。

それに慣れてしまうと、今度は「正直」に生きようとしても『正直な自分』という肖像を演じていたりする。

だから「正直な自分」というものがわからず迷走している人が多い。


社会全般が表裏の二面構造を常識としている中で、「正直な自分」をどう表現すればいいかわからないのは、それがいかに難しいことであるかということをようやく「知った」ということで、それをすることにより「コミュニケーション」が成立しないという現実に突き当たったということだろう。

だから「正直な自分」で生きたいと願いながらも今まで通りの二面性のコミュニケーションを取りながら葛藤を繰り返すことになる。

そんな自分の心と葛藤しながら『リア充』を演じている人は多い。


そもそも「充実感」というものは「感覚」であって「形」ではない。

心が充実していなければ姿形がどのように見えようとも空虚な姿形となって目に映る。

だが「形から入る」ことで掴めるものがあるかもしれないと、人は形から入っていくこともある。

そうやってひとつひとつ試して確かめながら進むのもいいだろう。

「正直な自分」と「誤魔化した自分」の隔たりを測りながら、少しずつ近づいていく・・・

そうすれば極力自分が『傷つかず』に済む。


この『傷つかずに』というのが「正直な自分」になれない原因であるが、それを避けながら進むというのは、「正直な自分」にけっして近づくことが出来ない道を進んでいると言うことに気付かない。

傷つかないために自分を鎧いながら、他者と明確な壁を築いておいて、どうして「正直な自分」でコミュニケーションをとれるというのか?

「鎧」とは「私をこう見て」という欲求であり、「見てほしい自分を演じる」という衣をまとっているということ。

それはつまり「正直な自分」を『直視しないで』ということに他ならない。

これこれこういう『色眼鏡』で見てほしいという欲求をあらかじめ押しつけているわけである。

それのどこが「正直な自分」で生きているというのか・・・・


私の知る限り世の中のほとんどの大人たちは「コミュ障」である。

「正直な自分」で生きられない「コミュ障」である。

それならば、嘘をつけず人と「コミュニケーション」が取れない人の方がよほど「正直な自分」を生きていると言える。

嘘偽りを演じなければならないのなら、コミュニケーションなど取らない方がいい・・・

そのほうがよほど自分に正直な生き方である。



魂の望むまま生きると言うことは、自分を偽りなく生きること。

だが世の中なんでもかんでも望むとおりの結果が得られるわけはない。

人とのコミュニケーションを望んでも、自分を曲げなければならない世の中では、コミュニケーションという部分に於いて結果は得られない。

そこで「自分を曲げない」ことを選択して他者との関わりという結果を諦めるか、他者との関わりを優先して「自分を曲げる」のか?

目先の結果に囚われなければ前者を選択できるだろうが、目先の結果を恐れるなら後者となる。


自分を曲げずに自分を表現している人は、常識とは違うが時間がたてば「付き合い方」というものが見えてくる。

千差万別あるはずの「個性」に勝手に「平均値」のようなものを定義して「常識」としているにすぎないこともわかってくる。

この「平均値」や「常識」というもの事態「思考停止」の原因でもある。

「平均」や「常」を当てはめることで自らの思考を「単純化」しているに過ぎない。

そして、単純化された思考で判断するから自らを「常識」や「平均」に寄せていくことになる。

そうして「安心」を得る。

「傷つく」という『恐れ』の反対側にこの『安心』がある。

そして人は自分を曲げてもこの『安心』を得たいのである。


だが、これも落とし穴となる。

『安心』を得るために「傷つく」はずの「正直な自分」を生きている人を認めたくない。

それを認めれば自分の『安心』が崩れ去るからである。

だから「正直」である人を「攻撃する」という行動に出る。

攻撃し排除することで安心する。

だがその「安心」の代償として「正直な自分」を諦めざるを得ない。

それでも「諦めた自分」を認めたくない。

だから「正直な自分」を演じる。

偽りを演じながら「正直な自分」を生きているという色眼鏡で『見て!』と言わんばかりの「鎧」を纏っている。



自分の魂のままに生きると言うことは、自分の魂に「責任」を持つことである。

それが出来なければ魂の望むままに生きるなど出来るわけがない。

『魂』というものは「安心」を求めたり「恐れ」を感じたりするものではない。

「安心」や「恐れ」は肉体に宿る「本能」の部分である。

それは本来「生命の危険」が及ぶときに発動するものであるが、潜在意識の「恒常性」の部分に長年にわたり「常識」や「安心」という「平均値」を「すり込まれて」しまったものであり、それがいつしか「物差し」となってしまったがゆえに、自らが「平均値」から外れることイコール「危険」という誤った基準が出来てしまったのである。

その誤った基準を自らの物差しの『柱』としている限り、そこから逃れることは出来ないのである。


魂のまま生きていると言いながら、偽りを演じている人は多い。

そして、そんな人を見てまた人は迷うのである。

魂がちゃんと掴めれば迷うことはないのだが、掴めないから何か道しるべは無いかと周りを見回して、それらしいものを参考にしようとするのだが、結局の所いくら周りを見回しても自分の魂は掴めない。

ともすれば『安心』を求める本能が心を乱し曇らせているから、間違ったものの見方をしてしまうのである。

そんな「間違ったものの見方」で見つけたものでたどり着けるわけがない。



心の中では「魂」と「肉体」の、ともすれば相反する「本能」がぶつかり合う。

そのぶつかり合う中で肉体の本能をなだめて魂の本能を優先するには大きな葛藤があるだろう。

そんな葛藤を乗り越えてようやく「魂」のままに生きることが出来るのである。

魂の望みのまま生きるとき、魂以外の自分の心の「望み」が叶わないことも多い。

「望み通り」という言葉に惑わされ、「すべて叶う」などという世迷い言に惑わされ、結果、魂から外れていくということになってしまう。

自分が叶えたい望みは「何の」望みか?

魂か?

浮き沈みする感情か?

本能が求める安心か?

脳の欲望か?

心の中には様々な「望み」が葛藤している。

そして自分が「本当の自分」としているものは「どれ」なのか?



人は自分との対話も満足に出来ない「コミュ障」である。

そんな人がどうして他者とコミュニケーション出来ているといえるのだろうか?




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