左目の【天照大神】の岩戸を開く



左目の天照大神は未だ岩戸の中にいる。

それゆえ右目の月読命に光は満ちることは無く、半月が空に浮かんでいる。


天王星が牡牛座に入ってからそろそろ半分の年月が過ぎようとしているが、岩戸を開いて月が満ちたものはどれほどいるだろうか?

星々が織りなすエネルギーの潮目は直接「岩戸」に働きかけているが、相変わらず「宵の明星」の光の動きばかりを追いかけて、岩戸を開くことに至らないのであろう。


岩戸が塞がれているため、本来の『美』を「愛でる」ことも能わず、「明けの明星」も本来の美しさを取り戻すことが出来ない。



ヴィーナスの美しさは「半月」の月明かりの中では陰りが生まれ、その本来の美しさを愛で得ない。

マーキュリーの理智の輝きも「半月」の暗がりでは本来の輝きを放たない。


本来の輝きを放たない「理智」の光と、本来の輝きを放たない「美」の光で進む航海は、迷いと憂いを持ちながら常に「後悔」がつきまとうばかりとなる。

その「後悔」を断つために「思考停止」することを覚え、宵の明星に曳かれるままに進む。

陰りを帯びた宵の明星の星明かりも、本来の輝きを知らないため「それ」が全てであるとしかわからない。

暗がりに慣れた瞳は本来の陰りの無い世界を想像だに出来ないだろう。

それゆえに「岩戸」は開いているにもかかわらず、人は岩戸を開けずにいる。


あと3年ほどで岩戸を開く機会は逃げ去る。

ヴィーナスの本来の陰りの無い美しさを知る機会は逃げ去る。



「美しさ」の基準が違えば進む道は異なる。


その異なる道が分かれてもはや半分が過ぎた。

左目の天照大神が現れた美しき世界と半月だけの暗がりの世界では「美しさ」の基準がまるで違う。

その違いに気付かぬまま「航海」が「後悔」とならぬよう、岩戸の向こう側から差す溢れんばかりの光を受け入れることである。


たとえ自分の『闇』が照らされ、自らの『闇』に苛まれようとも・・・

本来の「美しさ」を取り戻すことである。


「美」とは何であるか?


知りたくば芸術せよ。

日常を芸術せよ。

日々を美しさで満たせ。

自分の醜き生き様を見て美しさへと昇華させよ。




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