【絶対響感】(ぜったいきょうかん) 神人一致の理



執筆中の「続・華厳の道」より抜粋



神人一致 

神人一致した状態というのは、もはや『神の啓示』や『言葉』を聞く必要が無い。 

某かを『仰ぎ聞いて』いるうちは、まだ『分離』した状態であり、神と一致したならばもはや聞かずとも『解る』のである。 

それは【神の理(ことわり)】が心身に浸透し、『在るべく在る』状態がDNAに刻まれたようなものである。 



響き

私は昔からギターを弾いていたが、そんなギターの「弦の調律」が多少狂っていても平気である。 

しかし、世の中には『絶対音感』というものを生まれながらに備えている人が居る。 

そんな人はギターのわずかな「調律の狂い」も聞き分けてしまう。 

けっして「聞き分けよう」などという努力をしているわけではない。

努力せずとも音のズレが「耳障り」な雑音のように聞こえてしまうのである。 

それは気持ちのいいものではないらしいし、相当なストレスがかかると言う。 


 神と一致するということは、そんな『絶対音感』を獲得するようなものである。 

『神の理』から外れたものは、調律の狂った弦のように、わざわざ聞こうとせずともわかる。 

それはエネルギーの『響き』とでも言うようなものである。

人が「存在」として醸し出している『響き』

たたずまいに表れ、声に表れ、言葉に表れ、表情に表れ、挙動に表れる。


『神の理』を体現出来ているかどうか・・・ 


それが『響き』としてわかるのである。 

それは『絶対音感』を持っている人が調律の狂った音を聞くと心地が悪いのと同じように、『響き』のズレを抱えた人のエネルギーの『響き』を感じると非常に心地が悪い。 

それだけでストレスとなってしまうのである。  

それは【絶対響感】と言えるものである。



分離と統合 

分離と統合という言葉をよく目に、耳にするが、その本質を理解している人は少ない。 

言葉だけが先走りしていて、その言葉を「使う」ことがどこかステータスのようになっている。 

例えば、一つの紙に一本の真っ直ぐな線が書かれているとする。 

その紙の上に透明なレイヤーが何層にも重ねられ、それらレイヤーの一つ一つに様々な線が引かれているとする。 

そうしていくつもの線が引かれたものを人は見ているのだが、その中で「どれが一番下」にある紙に書かれた線なのかは判別がつかない。 

だが、それがわかるのが『神との一致』なのである。 

「絶対音感」を持っている人が『ド』の音は『これ』という確信があるのと同じである。 

だから、『神との一致』をすれば【絶対響感】を持つに至り、最初の線から外れた『響き』を醸し出しているものが自ずとわかってしまう。 

【神の理】という本来の『柱』であるもの。 

その『柱』が掴めないのは、一番下に敷かれた紙の線がわからないということ。 

それは『ド』の音が『これ』という絶対的なものが無いのと同じでなのである。



堕とされた素戔嗚命 

【素戔嗚命】が地に堕とされたのは、『神の理』である『柱』となる「線」が書かれた『最初の紙』の上に、幾重にもレイヤーを重ねて『一番下』に「埋もらせた」ということである。 

最初の線をまげるために、別の線が書かれたレイヤーが重ねられ、曲げるという前例が出来たことで、後々幾重にもレイヤーが重ねられる毎に別の線が引かれて『理』を曲げていったのである。 

そうして『最初の線』がわからない状態。 

それが『柱』のない今の人々の状態なのである。 

幾重にも【神仏】を「習合」という名のレイヤーを重ね、新たな線を引いていった。

そして、そのようにして「岩戸」も何度も閉じられていったのである。



八岐大蛇 

八岐大蛇を退治した素戔嗚命は、その尻尾の部分から『剱』を取り出した。 

その八岐大蛇とは幾重にも重ねられたレイヤーである。 

それらを退治(剥がす)すると尻尾(最下層)から出てくるのが『剱』たる『柱』である。 

神人一致するとは、最下層の紙の線が柱となり、それ以外の線は『ズレ』ということがよくわかるのである。 

人が「どのレイヤー」の『線』を自分の指針(柱)としているかでエネルギーの【響き】が全く違っている。 

いわゆる【神の旋律】から調子が外れているということである。


「分離」とはレイヤーの分離であり、「統合」とはレイヤーではなく最初の「紙」に回帰することである。 

最初の紙に書かれた線である【神の旋律】に「調律」するのが『祓い』であり『統合』なのである。 

それは、別の言い方をすれば『素戔嗚命の復活』ということにもなる。 

地に堕とされ(重ね埋められ)た【素戔嗚命】が再び『剱』を掲げ復活する。 

それが『柱』を復活させるということ。 

それこそが『統合』というものである。 


だが、【素戔嗚命】の坐す一番下になった『柱』を自らの真ん中に据えるということは、自らが『最下層』に下るということである。 

最下層に存在する『剱』を自らの『柱』とするということは、幾重にも重ねられたレイヤーの「一番下」を生きることである。 

そのために幾重にも重ねられた「レイヤー」に引かれた『今の柱』を手放せるか? 

自らが足場としている「レイヤー」から得ている『巡り』や『恵み』を手放せるか? 

【素戔嗚命】が復活するとき、自分が『柱』としているものが最初の紙ではなくレイヤーならば、レイヤーと共に引き剥がされることになる。 

そのとき人は自らの「拠り所」を失うだろう。


拠り所を『失って尚立てるか?』


それが出来たとき、人は初めて『自立』する。

そして初めて【天上天下唯我独尊】となれるのである。





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