火水(かみ)と観音(かんのん)




乙姫殿が来て以来、様々なことを教えてくれる。

教えてくれるというのは『導いてくれる』ということ。

そして『導き』は自らの足で歩くものだけに与えられる「神の手」である。




私が【乙姫殿】と呼んでいるのは、恐らく【豊玉姫】と【玉依姫】のどちらかなのであるが、そもそも【豊玉姫】と【玉依姫】は私の認識では『荒魂』と『和魂』の関係のようなものである。

強烈に渦巻くエネルギーの【豊玉姫】と、教え諭してくれる【玉依姫】

どちらも【乙姫殿】である。


【乙姫】という神様を追うとわかるが、いつも「霧の中」に紛れてしまう感がある。

それは【乙姫】という神様が『一神』ではないからである。

では豊玉姫・玉依姫の「二神」かというとそれも違う。


そもそも『乙姫』という名は『秘めたる音(音秘め)』の意である。

その『秘めたる音』とは仏教で言うところの『五観五音』の【五音】である。

五音とは【妙音】【梵音】【観世音】【海潮音】【勝彼世間音】の五つの音。

それは『音色』として響くものではなく、『音無き音』としての響きである。


その音無き音の五つの響きは『五観』から生まれる。

【真観】から【妙音】が生まれ

【清浄観】から【梵音】が生まれ

【広大智慧観】から【観世音】が生まれ

【悲観】から【海潮音】が生まれ

【慈観】から【勝彼世間音】が生まれる。


これを見るとサンスクリット(梵語)は【清浄観】から生まれた言葉ということになる。

玄奘三蔵や空海が【真言】としてサンスクリットを大切にしたのは、【清浄観】から生まれた言語で語られた教えだからである。



五観五音の説明は仏典に任せるとして、昨日より【乙姫殿】を追っていたところ「出口王仁三郎氏」にたどり着いた。

同氏曰く【玉依姫】は【海潮音】であるという。

そして【悲観】は【天津彦根】であるという。

つまり、先日【乙姫殿】が帰ってきたと思ったら【天津彦根の天目一龍】も同時に活動しだした・・・となったのは、【悲観】と【海潮音】が現れたということである。


天目一龍の「悲しみ」が、乙姫の「慟哭」となったのである。


この二神は一体の十(神)である。

縦糸の厳の神「天目一龍」と、横糸の瑞の神「豊玉・玉依」は三神一体となって現れる【観音(かんのん)】でもある。

十(かみ)が動いて卍(ほとけ)となるのはこういうことである。


以前出版した本『華厳の道』でも書いたように、神の結婚は「二神」と「一神」である。

それを過去の事例から伺うのではなく、現実に起こったものとして今回認識し得た。


おそらくここで動く卍(ほとけ)は『普悲観音』のような存在の『観音力』の現れであろう。

縦(I)糸の厳の神と横(ー)糸の瑞の神が結んで十(火水)となり、さらに神の本質である「観」と「音」が調和して卍(ほとけ)である『観音』となって活動するわけである。

天津彦根の天目一龍が観ずる『悲観』を、豊玉姫・玉依姫が響かせる『海潮音』が【普悲観音】となって「平等普遍の大慈悲心」を現す『大渦』を巻き起こす。


その大渦は「善」と思って握っているものが「悪」であったり、その逆もまた然りである。

善悪混沌とする大渦となるだろう。

『悪』の先にある『愛』

『善』の先にある『慾』


見極められぬなら手放すことである。

手放せぬは『慾』なのである。




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