羅生門




癒奏術の【羅生門】は「芥川龍之介」の小説を由来としたもので、それは『肚括り』そのものである。

逃げること無く「現実」と向き合い、そして自分の行動に一切の「言い逃れ」をしない。

そんな『肚括り』である。


「偽り」を握ったままでは一歩も通さぬ。

それが【癒奏術・羅生門】

『神の道』を進むには、一切の「偽り」を置いていかねばならない。

だがそれを出来る人は少ない。


一度荷物を手放しても、それは人前だけの話で、結局のところ握って放せない。

神の道へ続く門をくぐり抜けるには、自らの「良心」という『浄玻璃の鏡』にさらされる。

ほとんどはその耐え難きに負けて門を去って行く。



善だの悪だのに囚われているうちは、神の御用は務まらない。

「悪」も御用である。


悪人ではないが善人でもない・・・・

そんな「日和見」こそ神が最も忌むべき存在。

自分の行いに責任を持たず、自分の意思に責任を持たず、自分という存在そのものの責任を放棄した「日和見」。

自分の心の鏡より、他人の視線に惑わされるもの。

神がいくら導きを降ろそうとも、他人目を気にして「出来ない」を繰り返す。



まるで中二病をぶり返したかのごときスピリチュアルの世界は、偽りと欺瞞に満ちた世界と成り果てて、「精神性を高める」という「次元上昇」をねじ曲げて、獣に憑かれた霊懸かりばかりとなってしまった。

そんな「獣」を連れてどこへ行こうというのだろうか?


もう後戻りも出来ないほどに「獣」と一致した人々は、疑うこと無く神とした「獣」に付き従う。

疑うことは「悪」という屁理屈で、思考停止して盲信しゆく。


神が確とわからぬうちは、とことん疑わねばならぬ。

神が確と掴めるまでは、疑いながら進まねばならぬ。

神を疑い、自分を疑い、これ以上疑いようが無くなったとき、初めて神が確と掴めるのである。


歩まぬ自分を疑い、逃げる自分を疑い、答えを探さぬ自分を疑い、真実を掴もうとせぬ自分を疑い、そういった疑いが晴れたとき、はじめて自分が神に向かっているとわかる。

そんな自分と比べて、神なるものは如何か?

その神の精神性は如何か?

その神の言霊は本物か?

その神の意志は一貫しているか?

自分の精神性より劣る神はもはや神とは呼べぬ。

どこぞの霊か天狗か獣か・・・

自分が握っている「偽り」相当の「偽りの神」に過ぎない。



悪神の本質は「善」である。

悪とは「起こるべくして起こる」現象だからである。

ただ本質は善であっても、握って離さぬから淀み穢れが生じる。

善を握りしめれば「穢れる」のである。

だからその手を離す・・・

それを「改心」という。


悪神も悪の大将も「肚括り」は出来ている。

だから「改心」出来る。

だが、肚も括れぬ者は「改心」するだけの「軸」が無い。

「中道」「中立」「中間」という「軸」を持たぬ「日和見」の時代は終わっているのである。

「中道」などと言えば聞こえはいいが、結局の所「両極に立たない」だけの「中道」ほど忌むべき「日和見」はないのである。

悪人ではないが善人でもない。

どちらにも軸を定めぬ「日和見」ほど「改心出来ぬ」と神は言う。


常に「間」にいることで、批判から逃れる術は、すでに「自分」という存在を貶める行いである。

そこには自分の「意思」はなく、右に左に批判を避けて揺れ動く。

自らの行為が「悪」と人目に映るならば、すかさずその立ち位置を変える。

それを「意思」と言うは自らを偽る行為である。



【羅生門】とはそのような門である。

「覚悟」無きものに「覚醒」は無く「悟り」も無し。

そのための「覚悟の門」が【羅生門】なのである。