魂の『在り方』を問い直す【最後の晩餐】 ~蠍座新月・日食




見せかけの「平和」が前提の「自分の在り方」を握りしめて、魂本来の『在り方』を忘れてしまったものたちよ

星々は、神々は「何度となく」問い直してきたが、握りしめたまま手放せぬものたちよ


刻限である



水瓶座の時代は「自由」「平等」「博愛」である。

されどすべてを履き違えたまま何処へ行こうというのか・・・・

自由の裏には責任が伴う

平等の裏には区別が伴う

博愛は薄愛ではなく「弥栄の愛」である


自分が「自由」なら他者も「自由」である

愛は「実り」あるところにより分け与えられ、実り無きところには愛の恵みは来ない

実らせるも枯らせるも自由である

だが枯らすばかりなら区別される

平等に与えられた自由の中で何をするか

その結果で区別される

それは「愛を博げる」ためである

弥栄に愛を「博げる」ためである



愛あるところに愛の種は撒かれる

それは、愛が愛を呼ぶということ

自分が放ったものが返ってくるだけの理(ことわり)

誰にも与えられた平等である

どうするかは自由

何を放つかは自由

その結果に責任を持てばいいだけである



見せかけの「平和」の上で表れていた、見せかけの「愛」は終わりを告げる

見せかけの「平和」が崩れ去ったとき、初めて見せかけの「愛」を握っていることに気付くだろう

見せかけの自由、見せかけの平等、見せかけの愛

その「気付き」のために星々は、神々は「何度も」気付きを与えてきた


それももう刻限である





ひふみ神示 第五巻 地(九二)つ巻 第二十二帖

われが助かろと思ふたら助からぬのざぞ、その心われよしざぞ。身魂みがけた人から救ふてやるのざぞ、神うつるのざぞ、⦿(神)のうつりた人と〇(霊)のかかりた人との大戦ぞ、・(神)と〇(霊)とが戦して、やがては・(神)を中にして〇(霊)がおさまるのぞ。

その時〇は〇でなく、・も・でないのざぞ、⦿(神人)となるのざぞ、・と〇のまつりぞと申してあらうがな。

どちらの国も潰れるところまでになるのぞ、臣民同士は、もう戦かなはんと申しても、この仕組成就するまでは、神が戦はやめさせんから、神がやめる訳に行かんから、今やめたらまだまだわるくなるのぞ、〇の世となるのぞ、〇の世界となるのぞ今の臣民九分通りに〇なりてゐるぞ、早う戦すませて呉れと申してゐるが、今 夜明けたら、臣民九分通りなくなるのざぞ。お洗濯第一ざぞ。



ひふみ神示 第二十七巻 春の巻 第七帖 

ことわけて書きおくから、迷はんように。人民の理(ミチ)歩んで呉れよ。何も彼も嬉し嬉しとなる仕組、人民に禍ないのぢゃ。不足ないのぢゃ。いつも楽し楽しの歌で暮せる仕組ぢゃぞ。

と申しても、心で判っても、今の人民には判るまいから、更にこと分けて、こまかに説いてきかすぞ。理(ミチ)しるべをつくりおくぞ。これがよろこびの理(ミチ)ぢゃ。人民のいのちを正しく育てることが一番のよろこび。人民と申すものは神の喜びの全き現れであるぞ。いくらけがれても元の神の根元神のキをうけてゐるぞ。それを育てることぢゃ。導くことぢゃ。死なんとする人助けるのもその一つぢゃ。宿った子殺すことは、人民殺すことぢゃ。今の人民 九分九厘は死んでいるぞ。

救へ、救へ、救へ

おかげは取りどくぢゃ。生かせよ。生かせよ。生かす理(ミチ)は神示よむことぢゃ。



羯諦、羯諦、波羅羯諦 救へ、救へ、救へ




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