【道の世】 《癒奏術・華厳の章》
二十代、三十代の頃、禅の「無門関」や「臨済録」を読んでいたが、当時は本当にわからなかった。
考えてもわからない。
考えるほどに自分が「つじつま」を合わせようとしていることがわかり、その都度「考え」を捨てる。
「理屈」を合わせようとするということは、本来の「答え」をねじ曲げる。
たとえ「理屈」が合っているように見えようとも、本当の「答え」かどうかはわからないのである。
それを本当に「わかる」ためには『その道を通る』という『経験』『体験』が必要であり、そうして『経験』『体験』することでようやく「答えを掴む」ことが出来るのである。
だから、理屈を合わせつじつまを合わせたところで「答え」にはたどり着いてはいない。
そんな難しい「無門関」や「臨済録」といった禅師たちの『教え』を、その時々の人のレベルに合わせて噛み砕いて優しく教えようとすれば、まず間違いなく「歪む」ことになる。
何故なら「理解するための器の許容量」が足りていないからである。
バケツの水をコップに入れようとしても入りきらないのは当然である。
それと全く同じ事。
コップではバケツの水をすべて汲み取ることなど出来ないように、『器』が広がっていない者にとって『許容量』を越えているのである。
たとえバケツの水のほんの一部をすくい取ったところで、すべては理解し得ない。
自らの器がバケツほどになって初めて本当の『理解』に至るのである。
そもそもバケツの水をコップ一杯分に集約出来るなら、禅師当人がとっくにやっている。
それを「やらない」のは『あえてやっていない』ということ。
禅師たち先人が『教え』ているのは単なる『知識』ではない。
様々な『智慧』を入れられるだけの『器』となるための導きである。
人は鍛えることで『五感』の「枠」が広がる。
同じものを見ても、見る人によってその視界に映る「情報」の『量』は全く違う。
同じものを見ているようでも実際に見ているものは同じでは無い。
聴く時も、嗅ぐ時も、味わう時も、触れる時も、人によって受け取れる「情報量」は全く違う。
それが『器』の違いというものである。
だから、噛み砕いて優しく理解させようとしても、所詮受け取れる『情報量』は『器次第』なのである。
だから禅師たちはそうしなかった。
『器』が広がった時に「掴める」からである。
だからそこまでたどり着けと・・・・
『禅』とは『道』である。
答えを掴める『器』へとたどり着くための『道しるべ』である。
だから、『掴んだ』時、ようやく『そこ』までたどり着いたということがわかる。
『器』が『そこ』まで広がったことがわかる。
教えの世は終わりである。
これからは『道』の世。
理屈だけで「わかったつもり」の「知恵の世」は終わり、「掴んだ」ものが尊ばれる『智慧の世』となる。
自ら『掴んで』いない『智慧』は、自分の中に根付くはずもない。
『掴んで』いないのだからその手には最初から『無い』のである。
いくら『知識』を詰め込んだところで、根付かないものは芽も出ず花も咲かない。
『知識』は「掴んで」「根付いて」はじめて芽吹いて『智慧』となる。
般若心経なども同じ。
経典や祝詞も同じ。
色即是空を『掴む』まで
羯諦羯諦 波羅羯諦・・・
登って登ってたどり着くまで・・・
掴める器にたどり着くまで・・・
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