人は皆すべからく【生き霊】である~磐長姫の誠の鏡 《癒奏術・華厳の章》
人は皆すべからく「生き霊」である。
「生き霊」たる自分が纏った『衣』がその身である。
老いて肌がくすみ皺ができてシミが出来るように、「霊」もまた然り。
「心」がありありと姿となって現れる。
自分という「生き霊」がどんな姿か気にするものは稀であろう。
『神』の御姿が美しいのは【誠】そのものだからである。
【誠の善】そのものだからである。
穢れなく浄いその心の御姿そのままである。
餓鬼畜生、天狗に獣の世となっていると聞いて、我を省みるものは少ない。
言葉を飾り身を飾れども、自らの霊を浄めるものは少ない。
毎日風呂に入って垢を落とすように、霊の垢を落とす者は少ない。
盲目の羊たちよ
人は皆すべからく「生き霊」である。
自分が「見えない」から「見られない」と思っているのだろう。
見たいのなら見れるようになればいい。
答えは簡単である。
自分が【誠】となることだけである。
されど
【誠】となる道のりは険しい。
【誠】になれば見えるという「答え」を知ったところで、その【目】は得られない。
その【目】を得るには自らが【誠】とならねば得られない。
自らが【嘘】を纏っている限り、裸の王様が裸であることさえ気付かない。
裸の王様を目にしていながら、その「衣」を讃える者には【誠】は遠い。
自ら目を塞いだ盲目の羊たちよ
目を塞いでも在るものは在る
心を隠せば隠すほど「穢れ」を纏う。
「嘘」を纏った者達で群れても、ただの亡者の群れと化す。
嘘が嘘を呼び重ね着をして、自らの「霊」を更に穢す。
穢れは老化を呼び、自らの「霊」が老いた姿となる。
盲目の羊たちよ
人は皆すべからく「生き霊」である。
自分の姿を映すのは【日の鏡】
【日の鏡】は【霊(ひ)の鏡】
おのれの心を高みから見下ろす鏡である。
【磐長姫】が掲げる鏡は「霊」の姿をありありと映す。
自分という「生き霊」がどんな姿となっているのか・・・
目を塞いでもけっして美しくはならない。
人の姿をとやかく言わぬのと同じく言わぬだけ。
ただ黙って離れゆく。
それだけである。
0コメント