「魂を取り戻す」という真実ならざる『逆さ言葉』~稚姫命の魂魄の結び 《癒奏術・華厳の章》
自分の「軸」というのは「自分の魂」のことである。
「柱」というのは「揺らがぬ魂」のことである。
「剣」とは「歪まぬ魂」のことである。
「魂に還る」という言葉は「天地逆さ」の言葉
出口王仁三郎氏の言葉を借りるなら『体主霊従』ということである。
いったい「誰が?」魂に還るというのか?
自分が還るのか?
そうか、あなたは「魂」では無いわけか・・・・
では誰だ?何だ?
自分とは何だ?
魂は自分では無いのか?
ではた「魂に還る」とはどういうことか?
何度も言うように「魂が自分の身体を取り戻す」のである。
「魂が『この世の自分』という存在を取り戻す」のである。
かつて「自分」という存在を明け渡した魂が、「自分」という存在の『中心』に還るということである。
自分が魂を取り戻すのでは無い。
魂が自分を取り戻すのである。
魂という『霊』が自分という体を取り戻すのである。
自分を「何者か」に明け渡し続けてきたのをやめて、自分の魂である『霊』が自分の体の『主人(あるじ)』に還るということである。
自分であることをやめて「誰か」に成り代わり、「誰か」を演じ続けてきたのをやめることである。
自分の「意思」を殺して誰かの「意思」を自分に負わせるのをやめることである。
『魂』が『体』を従える・・・
『霊主体従』とはそういうことである。
人は「自分」であることをすぐにやめる。
都合よく「何者か」にすり替わる。
その「すり替わっている」のは『何者』であるか?
自分の意思ですり替わっているから「自分」と思い込んでいる。
自分の体だから自分と思い込んでいる。
その「すり替わっている」何者かは自分だけのものだと思い込んでいる。
隣の、近くの誰かに「自分」であるはずの「何者か」が「すり替わっている」こともあるが、それさえ気付かない。
自らの魂が自らの存在を、体を『明け渡した』ものは、いとも簡単に『霊懸かり』する。
体は単なる『器』にすぎない。
『魂』が入って『人』となる。
しかし主人が座を明け渡せば、別の「主人(あるじ)」が入り込むのは必然。
だが『別の魂』は入れない。
だから『思い』という『意』を居座らせる。
つまりは『意(居)座らせる』のである。
『体が主』であれば中身が変わろうが「自分は自分」ということである。
たとえ中身が自分で無くとも・・・・
『体主霊従』は「体」が「主人(あるじ)」である。
だから「魂」は「従属」するものでしかない。
自らの「魂」でなくとも良いわけである。
たとえ『禍霊』でも・・・・・
体の方から必死に「魂」を探しても、どれだかわからない。
いや、わかってはいるがわからない。
慾に引きずられ、何者かの「甘言」に引きずられ、結局ふたたび「座」を明け渡す。
体が主であるかぎり治らない。
それが【九分九分九厘の霊懸かり】なのである。
稚姫命の機織りの舩
舩は体 糸は魂
稚姫命の手から離れた舩は
その身を何者かに明け渡し
神から伸びたその糸(意図)で
機織ることをやめた・・・・
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