【素戔嗚命】とは何なのか? ~浄化の五行《癒奏術・華厳の章・八重垣の章》
素戔嗚命とは何なのか?
これがわからなければ神話の歪み、神世の歪み、現在の歪みはわからないままである。
素戔嗚命とは一言で言えば『正義』である。
【国之常立神】の『正義』なる部分である荒魂
それが【素戔嗚命】である。
では何故『正義神』が『悪神』とされているのか?
それは「神々の情け」が『正義』を恐れ毛嫌いしたため、【悪】として排除したからである。
【国之常立神】の厳しい『正しさ』に、神々は反発した。
「もっと自由に」
そうして神々は国之常立神を廃して、新たな主催神をいただき「自由」を謳歌した。
すると当然のことながら今までの『調和』が保てなくなる。
だから『調和』を機織る【稚姫命】も『調和』を保てなくなった。
ゆえにそこから神世から人世に至る『歪み』が始まった。
素戔嗚命が退治した『八岐大蛇』は『穢れ』によって神々、人々が暴走した姿を顕したもの。
それを鎮めるために素戔嗚命以下の神々が「浄化」をしたわけであるが、「その基準が厳しい」と神々が訴え、「もっと緩い正義」へと変えるために主催神を変えたわけである。
国之常立神は、素戔嗚命は反発したが、それを【向津姫】がなだめて下がらせた。
その時、向津姫は国之常立神に『いずれ主催神に戻られる時には自分が地に降りて立て直しをする』と約した。
そして、五男三女の神を地上に残したわけである。
そこからの幾千年の『歪み』すべては追い切れるものではない。
だが、歪みが更なる歪みを生み続け、今や縺れて解くことも出来ない。
そのどうしようもなくなった神世も人世も、修正するのを主催神が諦めて再び【国之常立神】へと返上したのが今の世界である。
そして、その「返上の写し」が神世から人世へと写ってきているのが今である。
《悪を抱きまいらせる五行の浄化》
悪とは怒りや喜びや悲しみや恐れから生まれる湿った思い。
それらが常に心の中に残っているから「歪み」が生まれる。
過去の喜びに引きずられ、悲しみを残したまま逃げ、恐れに目を塞いでいるからいつまでも残る。
それらの思いが「怒り」を歪めて【悪】となる。
素戔嗚命を廃した神々のように、自分への「哀れみ」という「情け」が「怒り」を歪める。
歪んだ「怒り」は「調和」を離れ、「破壊」へと向かう。
「怒り」とは本来「噴気」である。
つまり「憤怒」である。
「恐れ」て縮こまった心を膨らませる「気」
「勇気」であり「元気」であり「怒気」でもある「始まりの気」
だが、湿った心に起こる怒りは「恨み」や「妬み」や「嫉み」となる。
そして、その「怒り」を「喜び」に転化するには『何が』行われるか?
恨みを晴らし、嫉妬を解消するという行為が「喜び」となる。
そんな歪んだ「喜び」が心の「土台」となってしまえば、再び「悲しみ」「恐れ」の位置に「恨み」「妬み」「嫉み」が意座る。
こうして五行の巡りは「情け」で歪み、「正義」は「調和」ではなく「破壊」へと変貌していった。
恨みや嫉妬から怒りが生まれ、奪うことで喜びを得る。
正義の名の下に悪を許す。
情けの循環が引き起こす悲劇である。
ゆえに正しく「怒り」を使うことである。
不動明王の「憤怒」の形相は、悲しみ、恐れの「情け」を昇華するためのもの。
噴気し昇華して思いを「空」にし、悲しみの底にある「慈しみ」を拾い上げ、慈しみの雨を降らせ与える。
そうして心に溜まった「灰汁(悪)」を抱きまいらせる。
不動明王の如く憤怒の形相を浮かべる素戔嗚命は、「恨みつらみ」の「怒り」ではなく【愛】ゆえの「正義の怒り」である。
その「正義」はおのれの「義」を「正す」ものである。
「義」とは「我を捧げる」もの。
「空」なる想いで発する「怒り」
それが【素戔嗚命】である。
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