「祓い」と「神」と「調和」と・・・ 《癒奏術・華厳の章》
ひとくちに「祓い」といっても「何を祓うか」ということで違ってくる。
まず、「人」に対して行うのか、「場」に対して行うのか、もしくはその「両方」の場合もある。
次に「何を」祓うのかということも様々なケースがある。
その前に「祓う」とは「追い払う」ということではない。
「浄化」するものである。
「浄化」とは「調和」することであり、滞留した流れの滞りを解き、陰陽のバランスをとることである。
それは「場」に対しても「人」に対しても同じこと。
その「エネルギーの調和」が基本である。
この基本部分がわからなければ、何をやっても間違ってしまう。
例えば、死霊がとある場所に留まっているということは、そこにはエネルギーの滞留があるということである。
その滞留は「思いの執着」が生み出すものである。
だからその「執着」を解かなければ「巡り」は戻らない。
ゆえに霊も「巡り」に帰れないわけで、帰れなければ再び戻ることになる。
人に依る霊や生き霊も同じで、そこに「執着」が生まれるから「取り憑く」という「滞留」が起こるわけで、ではその「因果の因」は何なのか?を知り、それを解くことで「滞留」を解く。
「因果の因」は「場」にあったり、「人」にあったりするわけで、その「場」や「人」から「因」を解かないと「祓い」を行ったところで再び「果」が戻ることになる。
更に、「浄化」が人の手に負えない時に【神】を頼むこととなる。
だが、実際の【神】はそんなことのために手を出さない。
そこで手を出せるのは『五次元の自分』である。
いわゆる【守護神】と呼ばれるものたちと同じ次元の『自分』である。
ただ、こればかりは『自分』と【神】の「関係」が大切になってくる。
自分の霊統の【神】の『お役』というものがあり、そこから逸脱して出来るものでは無い。
だから「同じやり方」というものは厳密には存在しない。
「やり方(手段)」を学んだからといって同じ事は出来ないのである。
因果の「果」を消滅させるだけもの
因果の「因」を断つもの
因果を「調和」するもの
やり方は様々であり、どれかが間違いでどれかが正しいわけではない。
ただし「見極め」が出来なければすべて間違う。
それは、人の体を見極めるのも同じであり、人の関係を見極めるのも同じであり、世界の在り方を見極めるのも同じことである。
それらの「流れ」「巡り」の「本来の在り方」が見えなければ、「最善」へと帰結させることは出来ない。
在るべくして在るはずのところに無いことで不調和となる。
在るべき姿へ戻すには、その「在るべき」姿がわからなければ戻せない。
それは「祓うべきもの」と「そうでないもの」を区別するために必要なことである。
因果の「果」だけでなく「因」も祓い清め、「調和」させることが大切である。
腰を癒やすのに足のかかとを解したり、首を癒やすのに胸部を解したり・・・
目立つところだけに目を奪われれば「調和」させることは出来ない。
だから「追い払う」ことと「祓い」は同じではないのである。
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