『霊懸かりの世を創りし神々』~悪神の仕組み 《癒奏術・華厳の章》




悪神の企みは人から「魂」を離すことで、「霊懸かり」して支配することにある。

だが、実際に「魂魄」を切り離すことは出来ない。

一度「死」の境界を越えた時ならば別であるが、そういうことがなければ魂を追い出し身体を乗っ取ってしまうことは不可能である。

それゆえ「霊」と「肉体」、「魂」と「魄」の間に【岩戸】を立てた。

それによって「意識」は「肉体」主体となり、「霊体」から意識を切り離したわけである。



肉体側に閉じ込められた意識は、霊体を感知しなくなり、やがて自分の「霊」と別物の「霊」の区別も出来なくなる。

そこへなにがしかの意思を持った「霊」が取り憑き、肉体意識をコントロールする。



霊界にそんな霊達の住まう場所があり、黄泉(四三)の「輪廻のゆりかご」の中で【神】となった。

その霊達の住まう場所を【仙界】と言っても良いだろう。

そして、それらを【神々】として祀ってきた三千年の「業(カルマ)」である。



それらの神々が「神社」という社で【神】となり、崇められることで【力】を得る。

「祈り」「願い」「感謝」の【念】がエネルギーとなり【力】となる。

それが【神】と呼ばれる霊達の「食事」であり、それらが強く大きいほどに【力】を増す。

そのようにして四次元と三次元という『黄泉(四三)の世界』で支配を続けてきたわけである。


そして、ある時期から「神」は「仏」へと姿を変え、より『自由』に「様々な力」を与えた。

「神」の「制限」を外すべく「仏」へと転化させたわけである。





【神】には元来「役割」という『制限』がある。

それが『規律』であり『理(ことわり)』というものである。

それが元々の【国之常立神】の神政であった。



それを「あまりにも厳しすぎる」として【国之常立神】を騙し、追い出したところで【岩戸】を閉じていったのである。

そうして三五の次元を閉ざし、五七の次元も閉ざした。

三五の間の「地引きの岩戸」と、五七の間の「天の岩戸」の「ふたつの岩戸」を立てて閉ざした。



そうして「黄泉(四三)」の輪廻のゆりかごの世界を創り、そこで新たな【神】として君臨してきたわけである。




木花咲弥姫と磐長姫の「切り離し」は『地引きの岩戸』である。

未だ『岩戸の中』に居られるから『磐長(岩中)姫』と言う。

木花知流姫は「木の枝」であり「木股神」である。

つまり「枝と花を分けた」ということであり、花は「肉体」、枝は「霊体」である。

そして、花の無い枝は「醜し」として排除した。

枝から切り離された花の命は短い。

だから大山祇は「短い命となる」と言ったわけである。



こうして人の意識を「霊体」から切り離し「肉体」に閉じ込めた。

自らの「霊体」の意識を無くした『体主霊従』の出来上がりである。


こうして幾千年の間、人は黄泉のゆりかごで「霊界の神々」からコントロールされ続けてきたわけである。

これが『九分九分九厘の霊懸かり』の実体なのである。





だが、ここ数年で神社から『神々』が消えていった。

神々と言っても霊界の「神の役」をした霊達である。

それらが神社で人々の「祈り」や「願い」や「思い」を受けてエネルギーを与えられ、時々願いを聞き届けては「信仰」の力とした。

そんな神々が神社から消えていった。


何故か?


行き詰まって【国之常立神】に神政を「返上」したからである。

そして、改心した神々から徐々に神社を離れていき、改心せず執着で残っている者もある。

そんな状況が今である。



では、神政が元に戻るとはどういうことか?


簡単である。

「岩戸」など無くなる。


だが、岩戸とは「人の意識に出来たパラダイム」である。

神が勝手に開いて目出度しめでたし・・・というわけにはいかない。

「人」が自ら岩戸を開かねば開かないのである。


「岩戸を開く」とは「途絶えた霊意識」を取り戻すこと。

そして霊身一致することである。

つまり、岩戸の中の木花知流姫(磐長姫)と木花咲弥姫を『日月一対』とすること。

それが「人が開く地引きの岩戸」である。




今まで、人は四次元の『低級霊』を【神】と崇めてきた。

仙界の霊だけでなく天狗や狐狸や蛇の類いの「見分けもつかない」から、実際は「何を神と崇めて」来たかわかっていない。

神社に巣くう狐狸や天狗や蛇の霊が「人の姿」や「人の言葉」を使って『神様然』としていたのであるから。

そして、未だにそこから抜け出せずにいる。

古き悪神は「それ」を大いに利用しているからである。




「地引きの岩戸」が開けねば、五次元へ移行することなど到底適わない。

ましてや、さらにその上の【神】と繋がることなど出来ないのである。



今、すぐ隣の、目の前の「霊」に踊らされていることに気付けないだろう。

意識が「肉体」に囚われているから、どんな「霊」が意図を持って動かされたとしても「自分で考え自分で行動した」としか思わない。




さて、「何を言っているんだ?」と思うだろう。

しかし、それが現実である。

自分の「霊」を忘れた者が、自分を動かしている「霊」の事などわかるはずも無い。

自分の肉体に「入れ替わり立ち替わり」懸かっては「意図」する。

だがその「意図」は「肉体」からすれば「自分」である。

自分の肉体で起こったこと(意思)は自分なのである。

それが自分の「魂」でなくとも・・・・である。



人は誰しも霊懸かりする。

私も例外では無い。

だがその霊懸かりを「認識」しているかしていないか・・・・である。

自分の「霊」と別物の「霊」

別物の「霊」でもそれらが「どのような霊」なのかを「認識」すること。

それにはやはり「自分の霊」「自分の魂」がわからなければ話にならない。



今、こうしてこれを書いている時でも、すぐ近くに「霊」が来たり離れたり、ただただ漂うだけの「蟲」のようなものも居たりする。

生きている人の「念」も浮遊する。

思いを残し彷徨い浮遊する霊もある。


「理(ことわり)」をねじ曲げ続けたため、それらが混在し混沌となっている黄泉(四三)なのである。

だからさらにわからないことになっているだろう。

そうして成就した【九分九分九厘の霊懸かり】

【悪神】の企み成就というわけである。



守護神も曇って『高級神』と『低級神』の見分けもつかない状態であり、それらの霊にしてやられているばかりであるから、いつまでも人の岩戸が開かない。

守護神が『低級神』以下に成り下がっているからである。

それは、守護神自身が「情け」で曇っているからである。

自らも「理(ことわり)」から外れていることさえ気付かず「改心」出来ないままでいるからである。

だから、守護神自身も「落ちるところまで落ちねば」改心出来ないのだろう。



ひふみ神示 梅の巻 第九帖 

肉体がこの世では大切であるから肉体を傷つけたら苦しめたら、その守護神は、それだけのめぐり負ふのざぞ、霊々と申して肉体苦しめてはならんぞ、今の人民とっておきの誠の智ないから、持ってゐる智を皆出して了ふから、上面許り飾りて立派に見せようとしてゐるから、いざと云ふ時には間に合はんのぢゃ、上面しか見えんから、誠の事判らんから、神の云ふ事判らんのも道理ぢゃなあ。建直しの仕組 立派に出来てゐるから心配いたすでないぞ、建替延ばしに延ばしてゐる神の心判らんから、余り延ばしては丸つぶれに、悪のわなに落ちるから艮(とど)めの一厘のふたあけるから、目開けておれん事になるぞ、早う知らせる人民には知らしてやれよ、先づ七人に知らせと申してあろがな。




人は自分で自分の首を絞めるような行いばかりしている。

そうして霊懸かりしながら自分の肉体を傷つけ苦しめている。

他者を苦しめることは自分を苦しめることであると気付かない。

自分だけ喜びを得るということは、他者の喜びを奪うことに気付かない。

我良し御魂は自分を傷つけ苦しめていることに気付かない。

自分を傷つけ苦しめているから他者も傷つけ苦しめることに気付かないのである。




ひふみ神示 五十黙示録 星座之巻 第十八帖

天人が人民に語る時は、人民の中に来て、その人民のもつ言葉で語り文字を使うのであるぞ、自分と自分と語る如くなるのであるぞ、天人同士の文字は数字が多いぞ。夜明け前になると霊がかりがウヨウヨ、勝手放題にまぜくり返すなれど、それもしばらくの狂言。



守護神、天人の言葉は「自分の思い」と変わらない。

変わらないが違う。

『どちらも自分』

だから「自分と自分と語る」のである。


語り合っている相手が「何」であるか、「誰」であるかがわかっていれば「霊懸かり」とはならない。

霊懸かりしても霊懸かりとはならない。

「複数の自分」と「それ以外」ということである。