【セフィロトとクリフォト】~四三の次元と『扶桑樹』 《癒奏術・華厳の章》
五次元へ向かう際の「通り道」というものがある。
それが【扶桑樹】
その大樹の枝や幹を「トンネルを抜ける」ように通ってゆく。
その【扶桑樹】というものが認識できたからこそ【木花咲弥姫】と【木花知流姫】という神が理解出来たわけであるが、その「通り道」の全体像を認識した時に巨大な【生命樹】として認識出来た。
以前は「トンネル」をくぐるように木々の中を通り抜けて行くだけであったが、それを「俯瞰」して眺めることができるようになった。
それが「セフィロト(生命樹)とクリフォト(邪悪の樹)」
実際はもっと広大であるが、およそこのようなものである。
クリフォトは「邪悪の樹」とされているが、いわゆる「根の国底の国」であり、端的に言うと『黄泉』である。
セフィロト部分であるのが【伊邪那岐命】の世界
クリフォト部分が【伊邪那美命】の世界である。
生命創造の際にどうしても出てしまう『灰汁(あく)』であり、それらは「出るべくして出る」ものである。
ゆえにけっして「無くす」ことなど出来ない。
それを無くするということは、すなわち「生命活動」の『停止』を意味する。
生命活動で生まれた「灰汁(悪)」を根の国底の国へ押し流すのが【大祓】というものである。
だがこれは「一方的」な見方でしか無く理解も半分であろう。
実際は「双方」から同じ力が働く。
つまりこうだ。
五次元界の「創造の灰汁」も四次元界へもたらされる。
そしてさらにはこうなる。
『三四五』が重なり【岩戸が開く】とはこういうことである。
今までは地面の下に【灰汁(悪)】を埋めて隠してきたが、これからはそうは行かなくなる。
悪事が即バレる世界になっていることに薄々気付いているだろう。
今までは「戻り」が遅かったために、後々バレたところで「過ぎたこと」として有耶無耶にされてきたが、その「戻り」の時間経過がどんどん短縮されている。
それが「岩戸開き」であり「次元上昇」というものである。
「上昇」という言葉は『三次元』からの一方的な視点である。
俯瞰して観れば『岩戸開き』なのである。
天地がわかっていなければ、混乱するばかりである。
自分がいったい「どこに居るのか?」わからないだろう。
この【扶桑樹】の「在り方」そのものが変化している。
だから今までの「三次元視点の概念」は「天地が逆さま」となるので捨て去らなければならない。
「次元上昇」という言葉は「三次元視点」であり「体主霊従」の意識である。
輸入ものの言葉であるから「体主霊従」の色合いが濃厚である。
【扶桑樹】は広大であり全容を掴むことなど出来ないだろう。
生命の樹も邪悪の樹も扶桑樹の一部でしかなく、四三(黄泉)の世界を「三次元視点」から現したというものにすぎない。
四次元幽界の神々や霊達が「混沌」の中にあるのは言うまでも無い。
さらにこれから混乱は増して行くだろう。
途方に暮れた「守護神」たちは、何をどうすればよいかもわからない。
三五の次元に「道しるべ」があるのに、三五の者達がそれを使わないから益々混乱するばかりである。
ひふみ神示 五十黙示録 至恩(シオン)之巻
第十一帖 いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の治らす国もナミの命の治らす国も、双方からお互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ。
第十二帖 判らんと申すのは一面しか見えぬことであるぞ、双方を見る目に、早う改心致してくれよ。この白黒まだらな時は長くつづかん、最も苦しいのは一年と半年、半年と一年であるぞ、死んでから又甦られるように死んで下されよ、マコトを心に刻みつけておりて下されよ。
第十三帖 死ぬか生きるかは人民ばかりでないぞ、神々様も森羅万象の悉くが同様であるぞ、しばらくの生みの苦しみ。八の世界から十の世界になるのであるから、今迄の八方的な考へ方、八方的な想念や肉体では生きては行かれんのであるぞ、十方的想念と肉体でなくてはならんぞ。
第十四帖
八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸(言答)ひらきぢゃ
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