自己破壊と再生 《癒奏術・華厳の章》





価値の再生をしなければならない時に、人は「承認欲求」に流されて、壊して再生しなければならないはずの「価値観」を、握りしめて手放せない。

「破壊」や「再生」の言葉を使う者は多けれど、真に「破壊力」ある言葉も少なく、再生させ得るだけのエネルギーを持った言葉も少ない。

出来れば「自己価値」を壊したくないという「承認欲求」が、そういった言葉を避けて通る。

だから未だに「自己改革」が進んだ者が少ないわけである。



自らの「価値観」を破壊する時、「承認欲求」は邪魔なだけの「枷」である。

だがその「枷」を握って放さない。

「枷」を握りしめることを「承認」してくれるものに群がる。



「いいネ」に群がり「レビュー」に群がり、自ら「価値」を決められない。

自分自身が自己の「価値観」を信頼していないのである。

では、いったい「何を」承認してほしいのか?



ただただ「否定」されることを恐れて、「否定」されない選択をして、「否定」から逃れることで自らが「承認」されたという『錯覚』を得ているに過ぎない。

ゆえに、結局のところ何も「承認」されてはいないのである。

だからいつまでも「飢え渇き」を抱えているわけである。



餓鬼が餌に群がるように、「いいネ」に群がり「レビュー」に群がりそれらと『同化』することで「否定」を逃れているだけの「欲求」なのである。

つまりは「承認欲求」ですらない。

「非承認回避行動」を取っているだけである。



「気付き」とは「自己否定」と「再評価」の繰り返しである。

既存の概念を否定し破壊し、新たに作り直すことである。

だが、「否定」から逃げている限り「概念」が再創造されることはない。



餓鬼の群れの中で群れていたいのか?

蜘蛛の糸を掴んで天上へ向かうのか?


群れている限り糸を掴んでも、その糸に皆が群がり糸は切れる。

自分の価値は自分一人のものである。

他者と共有など出来ない。



正しき「個体」とならない限り天上へは昇れない。

神々は「個性」そのものである。

ゆえに「個性」を否定する限り、神の元へはたどり着けない。



自らが自らの「個性」を容認したとき、「承認欲求」という餓鬼の心は消え去る。

ありのままの自分を受け止められないから、いつまでも自分で自分の個性を否定して、自分からはほど遠い「何者か」になろうとする。

だが、竹は柳になれず、松は桜にはなれない。

タンポポは楠にはなれない。

なにが是で、なにが否かという既存の「価値観」を破壊せねば、自己にはたどり着けない。

自己にたどり漬けなければ自分の「魂」などわかるはずもない。

「魂」に帰結出来なければ「神」になど届くはずもない。

自分の「魂」、自分の「器」、自分というものをありのまま観なければ、自分の「価値」などに気付けるはずもない。



他者の目に映る「自分」の姿ばかりを追いかけて、自分の目に映る自己を蔑ろにしている限り、自分には帰結出来ない。

それを「他人軸」というのである。



常に「他人軸」でモノを見ているから恐れる。

恐れて空気を読んで、無意味に同調し行く。

そうして自分を消すのである。

自分の「器」に自分が居ない状態・・・

それは「虚ろ」である。

「虚ろ」な「器」があるから霊が懸かる。

「同調」したい欲求があるから「集団霊懸かり」となる。

自分を捨てた餓鬼の群れ

それは集団霊懸かりとなった「大蛇」そのものである。



共和とは「個」の集団である。

「個」を無くした集団は「共和」ではない。

「個」とは「桜は桜」「杉は杉」「紅葉は紅葉」「苔は苔」

「個」がありありと息づく「集団(まどい)」

「個」を無くせば「調和」から外れ行く。



ここから「破壊」と「再生」の時となる。

それでも握って放さねば、渦の底である。