『徳を積む』~大地の怒り 《癒奏術・水火土の章》




徳を積むということは容易いことではない。

単に「誰かに何かをしてあげれば」という「奉仕の形」に囚われて、奉仕をしたと満足しても「徳を積む」ことにはならない。



誰かに思い通りに「何かをしてあげる」ということは、「何かを求めて得る」ことよりも難しい。

その時、その場というタイミングで「してあげられる」ことが存在して、それを抵抗なく行い、抵抗なく受け取るという相互の自然な「流れ」があって、ごく自然にそれが「起こる」ことで『陰徳』となる。



いくら「奉仕」の精神が立派だとしても、相手に「受け取らせる」であったり、受け取るために「気を遣わせる」ようであれば、それは「与え」てはいない。むしろ「奪っている」ことになる。

ましてや「与える」ことで「見返り」を期待するなら、それはもはや「呪い」である。

「呪い」である理由は、「念」が「生き霊」となって相手に残るからである。

「見返り」が来るまでそれは残る。




「思い」の中に「穢れ」があっては「徳」とはならない。

「考える」隙もないほどに自然に流れるように「与える」という「行動」が起こる時、人は大自然と一体化した姿となる。

人の「念」という「箱庭世界」ではなく、「自然」と「調和」した「在り方」となっている。



思考や欲求が混じれば「穢れ」となり、その「穢れ」を相手に「受け取らせる」ことになる。

どんなに高尚な「奉仕」に見えようとも、それは「呪い」でしかない。




思った瞬間に「流れる」ように「行為」が発生するということが、どれほど「稀」であることか・・・

「引き寄せる」「引き寄せた」という思いを常々心の中に留め置いて、自分の現状を「引き寄せ」という「羅針盤」に照らし合わせて認識する行為は「穢れ」そのものである。

引き寄せたかどうかの「結果」を気にする「思い」が、自然な流れを穢す。

それは、神が起こした奇跡でさえも穢す。

引き寄せたかどうかに囚われる心には、未だ「飢餓」が巣くっている。

『足りない』という思いが「引き寄せたい」という言葉に転化し、「引き寄せた」から自分は「愛されている」などという思い込みで誤魔化す。

言葉を選び取り繕い、高尚な行為に見せようとも、「思い」の中に「餓鬼」が潜み、行為と共に「餓鬼」が相手に伝播する「呪い」となるのである。




伝播してゆく過程で『神』に『魔』が入り、『仏』に『魔』が入り、「人の欲」というルートを通って宗教は広がった。

どんなに高尚なものでもそうなのである。

スピリチュアルが広まる中で多くの『魔』が混じるのは簡単な事である。

そして、『魔』が混じるほどに『欲』の橋を渡って簡単に広がって行く。




人は長らく「自分で考える」ことをしてこなかった。

誰かの「考え」を取り入れることが「学び」であるとして・・・・

そして、誰かの「考え」の【型】に添うか添わぬか・・・ということを「思考」する。

それを「自分の考え」と勘違いしている。



自分の考えとは、自分の五感で捉えた様々な情報で考え「答え」を出すことである。

そこには「誰かの考えの型」など存在しない。

それが、本当の意味で「自分に還る」ということである。



そうして「自分に還る」ことが出来れば、「与える」ことに『穢れ』は混じらなくなる。

思った瞬間に「間髪入れず」行動が起こっているから『魔』が入る隙が無い。

思いと行動の隙間が空けば空くほどに『魔』が入り込む余地が増える。





【風】はどんな些細な隙間も通り抜けて行く。

逡巡すれば風は風でなくなる。

『風の時代』は「逡巡」のない世界。

『魔』の入る隙のない世界。



多くの人は未だ『風』へと移行出来ないで居る。

「考え」ていると思っても、実はただ「迷って」いるだけの『魔』に足を取られ思い通りに進めていない。

自分の「思い」が実は「誰かの考え」を置き換えたものにすぎないことに気付けなければ、「自分の思い」など見つかるはずもない。

だから「思い通り」に進めない。

だが「進んでいる」と思いたい欲求が「引き寄せ」などという新たな「型」を羅針盤にして、思い通りに進んでいると「思いたい」心が自分を騙して「そう思う」ことにしているにすぎない。





自然界はすでに次元を昇っている。

その自然界から取り残されているのは「人」だけである。


そして、自然に還ると言いながら、自然に自分を無理に「受け取らせ」ようとしている。

都会を抜け出し田舎暮らしになったところで、それは自然に対して自分を押し売りしているに過ぎない。

大地に還ると言って畑作業を始めても、それは大地に自分を押し売りしているに過ぎない。

自然の側からすれば、その不自然極まりない行為に『徳』などは無く、『穢れ』が混じった行為を自然に受け取らせているだけである。


だから「大地の神」がお怒りなのである。

「保食の神」がお怒りなのである。




「与える」ということは「与えさせていただく」ことがほとんどなのである。

「受け取っていただいている」ことに感謝も無しに「奉仕」しているつもりになって「穢れ」ばかりばらまいている自分を省みることである。

「受け取っていただく」ことは「穢れ」も「受け取っていただく」ことなのである。

それを「感謝」も無しに「与えている」という思い込みに浸り、穢れを撒き続けていれば、いくら与えようとも「徳」は積み上がらない。

自分の「得」ばかり積んでいるということである。



「得」ばかり積めばその分をやがて「ご破算」にする時が来る。

生きているうちか死んで後か・・・



「徳」を積んでいるのか「得」を積んでいるのか・・・・

ゆめゆめ間違えたくないものである。