「歴史のカルマ」~改心の分かれ道
「改心」とは「過去の過ちを認めて正す」ことから始まる。
自分の中の「過ち」
すなわち「偽り」によって歪んでしまったものを「正す」ことで、「歪み」を修正することである。
そして、星々はそれら歪んだ「カルマ」の修正を求めている。
自ら「思考停止」させることで「生きやすく」してきただけで、世界はずっと「混沌」の中にある。
生きやすい「考え方」を与えられ、それが「幸せ」であると教えられ、その「型」にハマることで「思考停止」をして、与えられた「生きやすさ」や「幸せ」の「考え方」の中に留まりつづけて「思考を停止」させることで、自らの内から湧き上がる「疑問」や「いらだち」を『無いもの』としてきた。
そのような「癖」がついてしまって、もはや考えること自体が「面倒」になり、自ら「思考停止」の檻に入ってゆく。
そのほうが「楽」であり、それが「幸せ」であり、そうすることが「生きやすい」からである。
だが、その「思考停止」という「歪み」は、さらに世界に「歪み」をもたらし続けている。
だが、それも「見ざる聞かざる言わざる」の「思考停止」の中に没入して、「無いもの」として更に進もうとしている。
まったく『改心』からは程遠い。
その時その場で「嘘」をついたとしても、修正しなければ「歪み」という「カルマ」は残る。
そして「改心」しなければ「歪みのカルマ」は消えることはない。
歴史の中にも様々な「嘘」による「カルマ」がある。
その時そうするしかなかったとしても、やがては明らかにしなければ「歪み」は残るものもたくさんあるだろう。
神々でさえ「カルマ」を解く作業をしているのである。
かつて出口王仁三郎氏は「千利休は明智光秀」であると喝破し、千家の当主もそれが「一子相伝の秘事」であることを明かした。
千利休の肖像画を見るに「頭巾」を被っているところは「才槌頭」を隠すためかとも思う。
また、武内宿祢氏は「織田信長は生きていてヨーロッパに渡った」と語っており、さらに武内宿祢氏は島津現当主から「真田幸村は生きていた」と聞かされた。
たぶん生きて「薩摩」に居たのだろう。
例えば、西郷隆盛の肖像画は実際の本人とは「似ても似つかない」と言う。
それは、恐らく「生きている」本人を「隠す」ためではなかったか?
一目見れば誰もが記憶してしまうほどの印象を抱いてしまう肖像画である。
肖像画と違う実際の本人が堂々と街中を歩いていても、その肖像画のおかげで気づかれずに済む。
例えば、源義経が最後に逃れた地である「奥州藤原帝国」は、義経が逃れ来たことで「帝国の崩壊」への道を進んだ。
つまり、義経の行動は「鎌倉幕府」の意向に沿っているのである。
そして『神話』というものもそのような(その時々の都合)側面が大いにある。
「結果論」と言い否定することは容易い。
だが、その「結果論」という言葉自体が「思考停止の装置」でもある。
そのように人は自ら「思考停止」へと進む。
「結果論」という言葉のように思考停止のスイッチはたくさんある。
昨今では「陰謀論」という言葉によって「思考停止のスイッチ」を入れることが多い。
この「陰謀論」という言葉を最初に使ったのは、ほかならぬ「CIA」である。
陰謀のためにある組織が自らの陰謀を暴かれまいとするために「陰謀論」という言葉の思考停止のスイッチを生み出した。
私は元々「探偵」である。
「結果」から「真実」に辿り着くのが仕事である。
「結果論」などという言葉を使っていたら「真実」には永遠にたどり着けないことを知っている。
「科学」というのも同じである。
「現象」という「結果」から辿らなければ「進歩」はないのである。
だから「現象」という「現実」の「結果」を『直視しない』者に限って「非科学的」という思考停止の言葉を使う。
「現象」という「現実に現れた結果」を「幻想」へと無理やりに転化する「非科学的」という言葉は、まるで「呪い」のように人を「思考停止」へと向かわせる。
コロナ騒動による茶番が一幕降りようとしている昨今、人々は再び「思考停止」へ向かおうとしている。
コロナ禍の中でも「思考停止」させていた者が再び思考停止へと向かうのは当然と言えよう。
しかし、一見「目覚めた」かのようになった者たちまで、過去の「思考停止」へと戻ろうとしている。
「生きやすさ」「楽さ」「幸せ」という、「かつての思考停止」に戻ることで自らの心に「安らぎ」を得ようとしている。
だが、その「思考停止」がこの事態を招いたことには頓着しない。
現実に起こっている現象を「見ない聞かない言わない」ことで、さらに「禍根」を育てているのである。
簡単に言えば「目覚めた」という者たちが、「二度寝」をしようとしているわけである。
せっかく目覚めても二度寝をして再び「夢の中」へ戻ってゆく多くの「覚醒者」を見てきた。
結局のところ「思考停止」することが「癖」になっていて、そこから抜け出せないのである。
真に「覚醒」をしようと思うなら、自らの過去を遡って「思考停止」のスイッチをすべて見つけて「オフ」にしなければならない。
でなければ、真の「覚醒」の『激変』に耐えられず、すぐに「思考停止」のスイッチを入れて「覚醒」への道を自ら閉ざすからである。
「変化」を望まないからこそ「思考停止」してきたわけである。
だから「覚醒」という大きな「変化」に対して、反射的に「思考停止」のスイッチが入る。
だから多くの者が「二度寝」をして夢の中へと戻るのである。
せっかくの「目覚め」の機会を、どれだけの人が享受できるのか・・・・・
「二度寝」へと向かわず「起き続ける」ことができるのか?
それを星々が、天が問うている。
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