『出石の乙女』~神功皇后の業 解



武(建)位起命(たけいたてのみこと・たけくらおきのみこと)


籠神社秘伝「海部氏勘注系図」海幸山幸神話

実は「天火明命」が「山幸彦」であり、「彦火々出見尊」となっている。

ーーー時に弟、釣り針を海中に失う。塩土老翁来たりていわく。即ち、火明命、竹籠に入り、海に沈む。豊玉姫命、その子の端正なるを聞きはなはだ憐重す。妹玉依姫命を遣わし養うは、即ち、「武位起命(たけいたてのみこと)」なり。ーーー


「武位起命(たけいたてのみこと)という名から「武の位を起てた」ということがわかる。

つまりは『物部(もののふ・武士)』という位を起こしたということ。

最初の『大物主』である。

初代『大物主』は『大名持(大己貴)』であり『大国主』である。

それが『天火明命』なのである。

実に「たくさんの名を持つ(大名持)」神である。


また、玉依姫の神話では「丹塗り矢」となった『火雷神』であり、それは『天神』である『大自在天』となる。


ここで唐突であるが「出口王仁三郎氏」のお力を借りる。

同氏の「霊界物語」では『大自在天大国彦』が登場し、さらに『大国別』も登場する。

それらは『火雷神(丹塗り矢)』と『賀茂別雷大神』なのであろう。

つまり、ここで言う『火雷神』は『天火明命』以下『大自在天』に至る神々と同じこととなる。




それでは『天日矛』であるが、結局のところ「矢」と「矛」の違いである。

その奥に存在する『元神』は同じ。

国が違えば言葉が違うのと同じことである。


そして、物語が変われども『理(ことわり)』に変わりはない。




ひふみ神示 ウミの巻 第七帖

今度は先づ心の建直しぢゃ、どうしたら建直るかと云ふこと、この神示読んで覚りて下されよ、今度は悪をのうにするのぢゃ、のうにするは善で抱き参らすことぢゃ、なくすることでないぞ、亡ぼすことでないぞ、このところが肝腎のところぢゃから、よく心にしめて居りて下されよ。この世は一つの神で治めんことには治まらんぞ、でくくるのぢゃぞ、人民の力だけでは治まらんのぢゃぞ、一つの教となってそれぞれの枝葉が出て来るのぢゃ、今では枝から根が出て大切なミキ(幹・御気)がなくなって居るのぢゃぞ、中つ代からの神では何も出来んと申してあろがな、神と人と一つになって一つの王となるのぢゃ、上下揃ふて一つになるのぢゃ、善も悪もあななひて、一つの新しき善となるのぢゃ、王となるのぢゃぞ。


第十四帖

何も分らん枝葉の神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、早う其の神と共に此処へ参りて、マコトの言(こと)を聞いて誠に早う立ち返りて下されよ、九十(マコト)とは一二三四五六七八九十であるぞ、一二三四五六七八かくれてゐるのざぞ。縁あればこそ、そなた達を引寄せたのぢゃ、此の度の二度とない大手柄の差添へとなって下されよ、なれる因縁の尊い因縁をこわすでないぞ。見て見よれ、真只中になりたら学でも智でも金でもどうにもならん見当取れん事になるのぢゃ、今は神を見下げて人民が上になってゐるが、さうなってから神に助けてくれと申しても、時が過ぎてゐるから時の神様がお許しなさらんぞ、マコトになってゐれば何事もすらりすらりぞ。



五十黙示録 碧玉之巻 第七帖

始めの日は始めの日に過ぎん、始めの前にあるものが判らなければ、それは只の理屈に過ぎんぞ、マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に過ぎん、男から女は生れんぞ、奇数から偶数は生れんと申してあろうが、一つのものの表が男であるぞ、裏が女であるぞ、男から女をつくったと申すのは或る時期に於ける教ぢゃ、岩戸がひらけたのであるから教へではならん、道でなくてはならんと申してあるぞ、道は永遠ぢゃ、〇から出て〇に至るのぢゃ。




神話とは「枝葉の理屈」に過ぎない。

そして、それ自体が『籠』であり『呪詛』である。


神を捨てて神に還る


それが出来なければ神人合一は叶わないのである。




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