『出石の乙女』~神功皇后の業 考察
国譲り以降、神話には常にパターンがある。
それは「巫女が神を人に授けて神人とする」ということである。
玉依姫が処女懐妊し神の子を産み(御言を授け)人を「神の御子」とし「神人」とする。
出石の乙女
天日矛という神がある。
新羅国の王子とされており、朝鮮半島からの「渡来神」とされる。
だが、神功皇后のころの朝鮮半島はヤマトの配下にあり、伽耶国はいわゆる『日本府』であった。
そもそも5000年前の半島には人は住んでおらず、その後、大陸やヤマトから渡っていった人が定住したものと推察される。
ゆえに神功皇后以前となると、神々の在り方からして、そこは「ヤマト」そのものである。
そして、神功皇后の「三韓征伐」とは、「宗主国」であった「ヤマト」から三国を脱退させに行ったわけである。
そして、三国の中で悪さをしていた新羅に説教をした・・・というものであった。
だが、その過程で半島に住む技術者集団が大勢ヤマトにやってきた。
そんな流れの中で「神話」というものも物語られてゆく。
天日矛=丹塗り矢と同義
阿加流比売神=豊玉比売神と同義
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古事記ー阿加流比売神
昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛と出会った。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしても天之日矛は許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。
天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるという。
日本書紀ー阿加流比売神
都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。
都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。
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伊豆志袁登売(いずしおとめ)
『古事記』には「茲の神の女」とあり、「茲の神」は基本的に伊豆志之八前大神と解されるが、天之日矛とする説も存在する。伊豆志袁登売神は伊豆志之八前大神の霊能、すなわち航海を容易にするような、海の風浪をあやつる水の呪力を身につけた女性とされ、高句麗神話の朱蒙(母は河伯の娘)との類似性が指摘されている。
秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫による兄弟争いの結果、弟の春山之霞壮夫と結婚して一子を儲けた伊豆志袁登売神であったが、『古事記』は一子以降の系譜をいっさい語らない。天皇との血縁関係が想定できないこともあって、この秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫の説話(秋山春山説話)については、『古事記』に載録された理由が問題となってきた。 秋山春山説話は『古事記』にしか確認できないが、秋山春山説話が接続する天之日矛伝承は、『日本書紀』では垂仁紀に配置されている。それが『古事記』において応神記に記載されるのは、神功皇后の系譜や新羅征討との関係からと推測されている。
伊豆志袁登売神は新羅の神宝に由来する水の呪力を継承していたが、それはあくまでも新羅が所有権をもつ水の呪力であった。この伊豆志袁登売神と、日本の神である春山之霞壮夫が婚姻をむすぶことによって、はじめて新羅が所有していた神宝=水の呪力が日本に移されたという。そのために神功皇后の新羅征討は易々と成功したのであって、神宝の所有権が移動したことを語るため、秋山春山説話も応神記に配置される必要があったとされる。
秋山春山説話の構成をめぐっては、大国主神と八十神の妻争い、海幸山幸神話、大物主神の丹塗矢伝承、あるいは額田部王の「春秋競憐歌」(『万葉集』1・一六)との類似性が指摘されている。そのなかでも海幸山幸神話は、弟が兄に勝利する末子成功譚というだけでなく、竹細工の利用、潮の干満による屈服など、細部においても共通性が存在する。また海幸山幸神話と秋山春山説話は、それぞれ上巻・中巻の末尾に位置しており、『古事記』編者が意図的に配置したという説が有力である。このような配置の背景には、兄弟の闘争・確執の末に世の中が改まるといった考え方の存在などが推測されている。
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伊豆志袁登売(いずしおとめ)=玉依姫と同義
伊豆志之八前大神(八種神宝)=誓約の八王子と同義
春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)=邇邇芸命と同義
秋山之下氷壮夫(あきやまのしたひおとこ)=饒速日命と同義
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出石乙女の物語
この出石の里の昔、古事記の中でも代表的な「伊豆志袁登売〈いづしおとめ〉」の物語がありました。
伊豆志袁登売は伊豆志之八前大神〈いづしのやまえのおおかみ〉(天之日矛〈あめのひぼこ〉)の娘で、気だてのやさしい美しい女神でした。
ひときわ目だったために多くの若い神々がきそって結婚を申し込みましたが、みんな駄目でした。
この土地に住む若い二人の兄弟の神様がありました。
兄を「秋山之下氷壮夫〈あきやまのしたびおとこ〉」といい、弟を「春山之霞壮夫〈はるやまのかすみおとこ〉」といいました。
あるとき、兄神の下氷壮夫が 「私は伊豆志袁登売に結婚を申しこんだが、やっぱり駄目だった。お前はどうか…」 と弟の霞壮夫にたずねますと 「たやすいことです。」とこたえました。
そこで兄神は、 「もしお前が結婚出来たら、上下の衣服〈きもの〉をぬいで身長をはかり、その高さの甕〈かめ〉に一杯の酒をつくり、山河の珍味をすべて取りそろえて贈ってやろう。」と約束しました。
弟神はこのことを、ありのまま母神に話しました。
母神は、野山に自生する藤の葛〈かづら〉を採集して、一夜のうちに衣服から袴〈はかま〉や沓〈くつ〉まで織りあげて着させ、弓矢まで作って乙女の家に行かせました。
すると、その衣服から弓矢までみんな一度に藤の花にかわり、乙女の心を得て結婚することが出来ました。
あるときトイレに行ったら、フシギな藤の花(変化した弓矢=男根)が置いてあったので、何気なく持って部屋に戻ると、後ろからハルヤマノカスミという神が寝所に一緒に入って来て何となく合体、つまり結婚して、一人の子を産んだ。
幸福な二人のあいだには間もなく可愛い一人の子供が生れました。
そこで、弟神はこのことを兄神に報告しましたが、兄神は弟の成功をうらやみねたんで、初めに約束したかけ〈・・〉の物を贈りませんでした。 弟神はそのことを母神に伝え、母神はこれを祖神〈おやがみ〉に報告されました。
人の手本となる神様のことです。
祖神は約束を守らぬ兄神をこらしめるために、出石川の中州〈なかす〉に生えた竹を切って、目の細かい簡単な籠〈かご〉をあみ、出石川の石をとって塩をまぶして竹の葉でつつんで籠に入れ、 「この竹の葉がしぼむように、この塩が乾くように、この石が水に沈むように沈み伏せ。」 と呪文〈じゅもん〉をとなえてかまどの上に置かれました。
そのため兄神は八年もの永い間、やせ細って病の床につき、うれい悔〈く〉い、泣いて祖神に許しをこいました。そこで祖神はこれを許して呪文を解かれましたので、兄神の身体は元にかえり、その後は平和な日々が続いたといいます。
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籠神社は饒速日(天火明)を祀る神社
つまりは饒速日命は「籠の呪詛」の中にあるということ。
海幸彦=邇邇芸命と同義
山幸彦=饒速日命と同義
↓
豊玉姫→玉依姫
↓
鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
↓
神武天皇
というパターンと同じなわけである。
天日矛=伊邪那岐命の矛
新羅国(しらくに)=白国(しらくに)→白山→白山姫→菊理姫→括(くく)り姫
神功皇后は何を「括った」のだろうか・・・
白山比咩神社の神紋は「三子持亀甲瓜花」
ここの亀甲紋は注連縄で瓜の花を閉じ込めています。
「瓜花」は『素戔嗚』の象徴である。
『素戔嗚』というお役を継いだ『初代大物主(大神・おおみわ)』であった『饒速日』を『亀甲』で括っているということ。
籠神社の「それ」と同義であろう。
そして『天照』というお役を継いだ『瀬織津姫』なのである。
ゆえに籠神社では『瀬織津姫』は『前の天照大神』となっている。
そして、『現天照大神』は『豊受姫』とされている。
『豊受』とは『国常立命』と『向津姫命』の現われであり、「豊受姫」は『向津姫命』の現われであり、『豊受大神』は『国常立命』の現われである。
ゆえに伊勢の外宮は「造り」は男神であるが祭神は「豊受姫」となっている。
もちろん、『饒速日命』は『国常立命』の現われであり、『瀬織津姫』は『向津姫命』の現われである。
そして、『瀬織津姫』の磐座は「六甲山」にある。
これも『亀甲』による呪詛であろう。
そして、征韓後に神功皇后は六甲山の周りを取り囲むようにいくつもの神社を建てている。
話がだいぶ逸れた。
天日矛と阿加流比売の神話は『神功皇后』の後の応神天皇の時代に生まれている。
つまりは三韓征伐後に何事か起こったのだろうと思う。
神功皇后の時代にはまだ統一国家には至っていないだろうから。
恐らく、天日矛と丹塗り矢に見立て、処女懐妊した「阿加流比売」も「伊豆志袁登売(いずしおとめ)」は『神功皇后』そのもののようである。
皇后は「処女懐妊」ではなく「新羅国」へ行ったときに「何事か」が起こったのであると推察できる。
さて、これ以上追いかけては迷走するので、ひとまずここまでにしておくことにする。
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