【タオ(道)~上善如水】 《癒奏術・煉獄の章》
土地の奪い合いと金の奪い合いは基本同じである。
違うのは「攻め込む」か「攻め込まないか」だけの違いである。
貨幣制度になってからは、「政府の発行残高」という限りある池の水が、川をめぐり雨となって山へ戻り再び川へと流れるのと同じである。
「政府の借金」という「発行残高」は、赤字と黒字の「陰陽」であり、借金と同時に同じ額の資産が誕生しているわけである。
それが川に流れ恵みをもたらし、やがて循環して帰ってきて「プラマイゼロ」となるだけである。
ただ、負債が膨らんでいるのは、経済の「パイ」・・・つまり「池」が大きくなっているからである。
負債が膨らんでいると同時に水も増えているわけである。
さて、金の奪い合いとは、いわゆる「水」の奪い合いである。
池の水を奪い合い、川の水を奪い合っているわけである。
誰かがたくさん奪えば、その分全体の水は少なくなるのは当たり前のこと。
それは、土地を奪い合っていることと何ら変わらないのである。
だが、それを「善し」としてそれを奨励し、たくさん取ったものを英雄視する。
そのかたわらで、ロシアのウクライナ侵攻のようなことを批判する。
やっていることは同じである。
それが当たり前だから・・・・
世間の風潮がそうだから・・・
そうすれば褒められるから・・・
様々な偽善的言い訳をして正当化する。
確かにそれが世界の「土台」である。
だが、その「土台」の底が抜けようとしている。
水があふれて大地は泥と化し始めている。
だが、その水は所詮「泡(あぶく)」でしかない。
泡が膨らんで大地が隆起し、泡が破裂すれば大地は底抜ける。
自分が手にしているのは「泡」か「真水」か?
大地が崩壊した後に残るのは「真水」だけである。
今まで、「真水」も「泡」も同じ価値にされてきた。
だが、その「真価」には雲泥の差がある。
天の眞奈井の水をいただいても、「泡」しかいただけない者もいれば「清水」をいただける者もいる。
それは、神がきちりと「立て分け」しているからである。
御魂ごとにきちりと「立て分け」している。
御魂の巡りで「立て分け」している。
神は「理(ことわり)」である。
ゆえに、自分の巡りがそのまま「巡り」となるだけである。
それが神の「立て分け」
国常立命の厳密な「立て分け」である。
少々悪さをしても「死なば皆仏」であったのは、もはや昔のことである。
今は、生きていた時の「巡り」が、そのまま死後の「巡り」となる。
「行きたい世界に行ける」とは、そういうことである。
生きたいように生きた「生(せい)の巡り」そのままに、死後はそちらの世界へと向かう。
今の世を見るに、「神に還れる」御魂などほんの僅かである。
あとは、生きていた巡りそのままに、同じような巡りの者の集団となってゆくだけである。
獣のような巡りをもって生きていれば、死んだ途端に「獣」の仲間入りである。
実際に「それ」を見たから言っているのである。
天狗なれば天狗に、鬼なれば鬼に、餓鬼なれば餓鬼に、畜生なれば畜生に、死んだ途端にそれぞれ迎えられる。
おかしな悪神に捕まっていれば、そちらで死後を送ることになる。
そうして「巡り」が取れぬうちは「神のもとへ」など到底行けぬのである。
だから生きているうちに「改心」して「巡り」を取れと散々言ってきたのであるが・・・・・
誠、誠、三蜜、三蜜と言ってきたのであるが・・・・・
経済は水の流れ、巡りである。
大きな恵みとなる大きな巡りを生むのが「商魂」である。
だが、恵みとなるはずのものを枯らし、巡りを止めるものは「病(やまい)」であり「禍(わざわい)」でしかない。
やがて泡(あぶく)は破裂して、大地は陥落する。
その時、その手の中に「真水の巡り」有るや無しや?
真水は・・・・
低きところを流れているものである。
上善如水、
水善利万物而不爭。
処衆人所惡、故幾於道。
居善地、心善淵、與善仁、
言善信、政善治、事善能、動善時。
夫唯不爭、故無尤。
水は争わぬもの・・・
争わぬところに「真水」がある。
その「巡り」が天地自然の巡り。
人の御魂の巡りもまた同じである。
禊ぎ祓い給え・・・・
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