【日ノ本の国から月夜見の国へ】~月読命の婆羅門の教え 《癒奏術・煉獄の章》
日ノ本の神人一致の教えは、海を越えてヤマト人以外の外国にも当然のことながら教えられていた。
だが、ヤマト人と外国の人々は根本的に『逆』である。
言葉然り、思考然り、ゆえに行動も『逆』となる。
それは「鏡の写し」としての避けられない理(ことわり)である。
ゆえに「鏡の写し」として「教え」自体を「反転」させなければならない。
ヤマト人が特別なのは、ヤマト人を「写し鏡」として外国の人々が誕生したからだ。
本来は「二つ」ある鏡であるが、「一つ」しか使えない。
ゆえに『反転』する。
そして、その『反転』した人々に『教え』る場合、『教え』自体を『反転』させなければならない。
つまりは【日の光】を『写す』【月】に教えを転じたということ。
ゆえに【月読命】が「治らす国」は「外国」であり「外国の人々」なわけである。
その【月読命】の教えが残存しているのが【婆羅門(バラモン)】
御三体の神は
【天御中主神】を中心に【高皇産霊神】・【神皇産霊神】が天照大神の日ノ本の教え
【ブラフマー】を中心に【シヴァ神】・【ヴィシュヌ神】が月読命の婆羅門の教え
日ノ本の教えをしっかりと「写し取り」、「写した」状態で教える。
それが【月読命】の教えである。
外国の宗教は元を正せばすべてここにつながる。
ユダヤも『同じ』であったはずなのだが、何時しか変わってしまった。
イエスに洗礼を施した『ヨハネ』は、しっかりとその教えを持っており、そしてそれを『イエス』に洗礼し、それをもってイエスは教えを説いたはずである。
だが彼らは拒絶した。
日ノ本では『国譲り』の時から「人皇」の世となり、「人皇」となる人物に【祝の神事】にて『神号』を授け、それをもって「人皇」となる。
それは【天照皇大神】の『代行者』の位置につくということ。
それを行うのが『国譲り』を行った【事代主】であり、その【事代主】の名代として【賀茂】が神事を執り行い、【玉依姫】の名代の『巫女』が『御言』を授けて【命(みこと)】となり【皇(すめら)】という【天照皇大神】の名代となるわけである。
そして、【事代主】の名代の「写し」が『ヨハネ(四八音)』であり、【玉依姫】の名代の「写し」が『マリア』となる。
だから、『聖母マリア』の後には『ガリラヤのマリア』がちゃんと居たわけである。
そうやって『マリア』は代々続いてゆく。
ゆえに『イエスキリスト』という「皇の写し」の名代も代々続いてゆく。
大化の改新のころ、【聖徳太子】という人物が現れた。
またの名を【厩戸皇子(うまやどのみこ)】という。
彼はおそらく「ヨハネ」と「マリア」によって「皇の写し」の名代となった人物であろう。
彼は日ノ本に「仏教」を取り入れた。
それは、仏教の奥にある『婆羅門(バラモン)』である。
本来、日ノ本の「ヤマト人」には「写し鏡」の教えはそぐわない。
ゆえに【大物主】からの教えに准ずる『物部氏』と真っ向から対立することになったのだろう。
この対立は「日」と「月」の争いである。
そして『物部氏』は壊滅させられて、日ノ本は『月夜見の国』と変わった。
更に、ヤマト人がもともと持っていた「二つの鏡」を「一つ」にした。
「日月の鏡」の「日の鏡」を排して「月の鏡」だけにしたのである。
それが神話の【瓊瓊杵尊】と【木花咲耶姫】の婚姻であり、【岩長姫】を排除したあらましである。
つまり、この神話は「この時創られた」ものであることがわかる。
【饒速日命】から【瓊瓊杵尊】へと「替えられた」ということだ。
本来、「霊(ひ)の教え」を説くはずの「イエス」であるが、この時、「厩戸皇子」は「霊の教え」を捻じ曲げて「霊」を隠した。
それを「権力者」だけの「特権」にしたのであろう。
「勝手に自然の精霊と語らうべからず」
神と語らうに「神社」や「寺社」を置き、そこに「名代」を置いて「名代」を必ず媒介させることで「特権」としたわけである。
この時代に、「賀茂家」にある一人の術者がいた。
【役小角(えんのおづぬ)】という。
いわゆる『修験道』の開祖であり、「役の行者」と呼ばれ『蔵王権現』と称される人物である。
彼は「大化の改新」を推し進める「藤原政権」に一人で徹底的に抗い続けた。
「朝廷軍」ともたったひとりで渡り合ったと言われる。
何が言いたいかというと、「修験道」は「仏教伝来」とされるこの頃のはるか以前よりあったものだということ。
つまりは「伝来」したものではない。
「日の国」のやり方と「月の国」のやり方が、いつしか「習合」して今日に残っているのだろう。
いわゆる「陰陽道」的なものが外国で「密教」のようになっていった・・・ということである。
「密教」的なやり方は「日の鏡」を持たない場合のやり方である。
「日の鏡」があれば、その行程が必要ないというわけである。
例えば、ヨガのヴェーダなどにある「クンダリーニ」などは、今日「月の鏡」の見方でしか理解していないわけであるが、「日の鏡」・・・つまり「霊の鏡」があれば『反転』させて『本来の在り方、順序』にできる。
日本人にとってはそれが本来の在り方である。
だから、ヴェーダでの「クンダリーニ」に至る過程自体が「逆」で『起こせる』のである。
恐らく「月の国」となって久しい日本人の思考が、本来と『逆転』してしまっているから「何を言っているかわからない」となるであろう。
そういう人はそのままヴェーダの順序に従えばいい。
さて
【国常立神】が「掃除せよ・洗濯せよ」というのは、「掃除洗濯して本来持っている日の鏡」を見つけろと言っている。
それが「ヤマト人」であり『神国人』と言える『本来の縄文人』なのである。
そして、それ以外の人を『幽界人(がいこくじん)』と神は言う。
月の明かりは「幽界」くらいまでしか届かない。
だから「霊懸かり」がウヨウヨすることとなる。
月の鏡に映るのは「幽界」が限度である。
それは「身欲」に左右されるからである。
だが、日の光は神界・幽界・現界にあまねく届く。
「身欲」の届かぬ場所にあり、月明かりのように薄暗い明かりではないから、様々な存在がはっきりと写る。
ゆえに幽界の霊に騙されることもない。
魂は一切「身欲」に左右されない。
だから「魂に還る」ことが出来たなら、そこには必ず【岩長姫】が「日の鏡」を持って居られる。
それは、山のすそ野から山を見上げるのと、頂上から下界を見下ろすほどの違いがある。
雲は眼下にあり、空は晴れ渡っている。
富士は晴れたり日本晴れ
ひふみ神示 上つ巻 第三十三帖
神の用意は済んでゐるのざから、民の用意 早うして呉れよ、用意して早う祀りて呉れよ。富士は晴れたり日本晴れと申すこと、だんだん分りて来るぞ。神の名のついた石があるぞ、その石、役員に分けてそれぞれに守護の神つけるぞ、神の石はお山にあるから、お山開いて呉れよ。ひつぐの民、みつぐの民、早う用意して呉れよ、神急けるぞ。
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