一厘の賭けに見ゆるとも 《癒奏術・鋼の章》





出口王仁三郎氏は言っていた。

流行り病などは人の手で小さくできる「小難」である。

「大難」は人の力ではどうしようもない天変地異などであると。



ただただ「難」を引き受けたところで、それがかえって「改心」を遠くさせ、さらに「難」を拡大させることともなる。


日本人に「難」を引き受けさせているつもりなのか、だがそれは相変わらず「愛」ではなく「情け」である。

「情け」の水は「呼び水」となってさらなる「情け」を呼び起こす。

「小難」で収めようと思えば収められたものを、「情け」でズルズルと引きずって「大難」を呼び寄せてしまいそうである。



誰かの邪気を誰かが浄化し続けて、それが終わることなく続くと思われたなら、浄化の炎は黒い怨嗟の炎へと転化し、逆流を初めて「邪の炎」となって燃え盛る。

許容範囲のわからぬものが旗を振って采配しているのである。


それとも、この三千年の歴史が見せたように、命をもって「贄」と為し、神にささげようというのだろうか?


その【神】とは一体何者であるか?




天地の神を無きものにして、幽界に神殿を立てた愚かさは、今この時に「何」をもって代価を払おうというのか?


幽界に湧いた「神」に右往左往して『どうにもできぬ』ようになっているのであろう。


幽界の神殿の横山に何を置き足しているのか・・・

何を捧げた?



その捧げたものは「愛」ではなく「情け」であろう。

だからいつまでも終わらぬ。


捧げれば捧げるほど足りなくなる。



先祖に、死者に、幽界に「情け」を送り続けたゆえである。

だから「情け」でめぐり繋がり、いつまでも「切れぬ」めぐりとなる。


愛は火であり水ではない。

光は火であり水ではない。


火は火だけでは炎とならない。

水が燃えて炎となる。

燃えて炎とならねば「上がれぬ」のである。

「情け」で縛れば黄泉を彷徨うだけとなる。

だから三千年分の幽界の霊が彷徨って、人に懸かっているのである。



よいか

昇華し上げてやるのは「火」である。

情けは「未練」を生み枷となる。


情けを与えるは「相手のため」という偽善的なおのれの「未練」の産物である。



幽界に彷徨うものを上げてやるということは、未練の「情」を焼火(昇華)して「枷」を断ち切ってやることが「愛」であろう。

では、生きている人への「愛」は?



愛は火水(かみ)である。

火水(かみ)は炎である。

「情」に火が点き燃えた「情熱」こそ「愛」である。



「難」で湧いた悪情の泥水を浄化し得るのは、相当量の「炎」が必要であろう。

泥水を真水に変えるほどの情熱で挑むとき・・・・


夜明けとなる。



日の出の神 日子火火出水(彦火々出見)命なり

天穂日命と木花咲耶姫命の観音力なり



一厘の賭けに見ゆるとも 天地グレンの一厘なり