大鳴門




アメリカを震源として旧世界の仮想現実は鳴門の渦に沈み始めた。

『金で世界をつぶす』という神示の通り、「金」に抱いていた幻想はことごとく破壊されゆく。

その幻想を握りしめ続けていれば、足かせとなって新たな扉を開くことは出来ないだろう。

心に根を張ったその「軸」が行動をも歪めてゆき、幻想が壊れるだけのはずが、現実世界にその歪(ひずみ)を波及させる。

手放せぬ執着が恐れを増大させ、それが怒りへと転化し行く。



壊れ行くのはあくまでも「幻想」だけである。

だが人はその「幻想」を「軸」とした『仮想世界』を生きている。

架空の『箱庭』を想像し、それがあたかも「在る」かの如く振舞ってきたわけである。


実際、そんなものは「人の頭の中」だけにしか存在しておらず、世界は普通に巡り回っているだけである。

だが人は「枷」を作ることで人を縛ってきた。

そして、そんな「枷」に依存もしてきたわけである。



「金」とは「幻想」のたまものでしかない。

「価値」を人の頭に植え込み、心に植え込むことでようやく「維持」できる「幻想」なのである。


その「幻想」を破壊し再構築するのが『グレートリセット』である。




価値が壊れ始めると同時に「幻想」は壊れ始める。

すると人も壊れ始める。

さっさと「次に行けば」難儀な時間はほんの少しで済むのであるが、握って離せぬものが大多数なため、「小難」で済むものを「大難」にしてしまうのである。

「幻想」を享受したものほど手放せない。

しかし、無理やりにでも引きはがされる。




さて、どれだけのものが前後際断して次に素直に進めるのか・・・・


何も握らず「手放し」でおれば鳴門の大渦はすんなり渡れる。

そうして「富士」へとたどり着く。

鳴門と富士の仕組みは

終わりと始まりの仕組み

執着すれば沈みゆく。

手放しすれば登り始める。



終わりの鳴門は「生まれ赤子」の心で手放し

さすれば富士の裾野に参る

あとは始めるだけで善し

それが出来るなら神は力添えをするだろう。




「常識」とは「幻想」である。

「幻想」ではない自分に帰れているか?

自分という「実体」にちゃんと帰れているか?

自分の「思い」の「実体」にちゃんと帰れているか?

情報で上書きされた「幻想」ではない「実体」の自分に・・・・

情報で上書きされた「幻想」という「穢れ」を『掃除洗濯』出来ているか?


過去は未来に持ち越せない。

幻想はすべて置いてゆかねばならないのである。

置いてゆかねば未来へ行けず、次元も上がれぬ。



さあ

握っているものを手放して、手放しで鳴門の渦を渡るときである。






ひふみ神示 梅の巻 第二十六帖

金(きん)では治まらん、悪神の悪では治まらん、ここまで申してもまだ判らんか、金では治まらん、悪の総大将も其の事知って居て、金で、きんで世をつぶす計画ざぞ、判ってゐる守護神殿 早う改心結構ぞ、元の大神様に御無礼してゐるから病神に魅入られてゐるのぢゃぞ、洗濯すれば治るぞ、病神は恐くて這入って来られんのぢゃぞ、家も国も同様ざぞ。神示幾らでも説けるなれど誠一つで説いて行(おこな)って下されよ、口で説くばかりではどうにもならん、魂なくなってはならん。