『意思とエネルギー』~霊体の姿 《癒奏術・弥勒・序》
意思とエネルギー
エーテルというエネルギー体(霊体)は「意識」そのままを醸し出す。
心がそのままエーテルに現れるわけで、だから言葉でいくら誤魔化しても、表情や仕草で誤魔化しても「即」エーテルに現れているのだから意味がない。
それが「次元上昇」というものであり、「岩戸が開けている」ということである。
だから「心と言葉と行動」の不一致は、即座に「嘘つき」であることを証明する。
人と対峙した時の想念は、即座に身(霊)に現れる。
「響き」となって身にまとう「想念」は、その身の「見え方」まで変えている。
弥勒世は嬉し恐ろしい世界
それだけではい。
霊懸かりしている霊までも伝わる。
それがどのような霊かも一目瞭然。
その霊が「嘘」を見せてもその嘘さえ透けている。
言葉
私がエーテルというとき、「映照(えいてる)」という意味である。
意識が霊となり身にまとうように「照り映えて」いる。
オーラは「覆う羅(おおうら)」
「羅」とは「網」や「薄衣(うすぎぬ)」の意であり、つまりは「身体を覆う薄衣」という意味である。
オーラというものはチャクラの発動であり、「優位に活動しているチャクラ」の発動を示す。
そして、チャクラの波動の響きは意識の状態も示している。
肉体的である「暖色系」と、精神的である「寒色系」
色域がどちらにあるかでその立ち位置が現れている。
憑依
全ての人はいくつかの霊が憑依している状態である。
それらは「指導霊」であったり、「守護神(霊)」であったり、禍霊であったり、浮遊する何がしかの霊であったり・・・・
自分の霊の中心には魂がある。
それがしっかりと「自分」に据え置かれていれば、憑依する霊は選別されるが、その魂をどこかへ忘れてしまっているから様々な禍霊や浮遊する霊に感化され、その霊の意思をもって行動することになる。
だが気付かない。
「自分という器」がそのまま使われているから「自分」であるとしか思わない。
魂という「軸」が無いから、よそ者の意識を「軸」としても気付かない。
「自分」という「器の記憶」をそのまま使われているから、自分と思っている「記憶」の延長線上にあるから「自分」に変わりないと思う。
使われることが「常」ならば、その記憶の延長線上の変化も容易に受け入れる。
要は「自分とは何であるか」という認識の問題である。
器を自分としているか、魂を自分としているか
その立ち位置次第である。
器を自分としているなら、中身が変わろうが自分に変わりはない。
だが、魂を自分としているなら、器に異物が入っても追い出そうとする。
人という器は、しょっちゅう中身が入れ替わっている。
人は「霊止(留)」という「器」なのであり、そこに「魂」が宿り「霊体」を生む。
魂がしっかりと真ん中に据えられているなら、その魂が受け入れないものは器を使えない。
だが、魂を真ん中から「退けて」しまった器は、本来、魂が受け付けないはずの霊も受け入れてしまう。
そして、それが「本質」となり、現実の行動も同じようになって「受け付けないはずのものを受け入れる」というものが示現される。
つまりは、自分の意思を曲げて生きることとなる。
だが、自分の意思を曲げていることにも気付かない。
魂が自分という器を他者に明け渡しているから、自分の人生も他者に明け渡す。
だがそれを「自分の意思」と思い込んでいる。
その意思は「魂を押しのけた」意志であり、それはけっして魂の意思ではない。
だが、「器」としての自分はそんなことどうでもいい。
器は「生命の継続」という本能で動くから、それが成っていれば「善し」とする。
それを「善し」としないのは「魂」であり、だから魂を真ん中から退けたのであり、魂を退けて「器を自分」としたのだから、「記憶の連続」だけが自分であるという認識となる。
そんな「立ち位置」が意識を生み、それがエーテル(霊体)となっているわけである。
そして、憑依した霊の感化が色濃く表れ、霊の姿が現出する。
穴
時々、頭頂の少し右寄りのところに「霊体の穴」が開いている人がいる。
そういう人に「何かした?」と聞くと、決まって「レ〇キ」という言葉が返ってくる。
そのぽっかり空いた「穴」は「霊」を呼び寄せる。
浮遊した霊でさえ、そのぽっかり空いた穴を見つけ、そこから「入ろうと」するわけである。
そんな穴が開いているから「霊」に感応されやすくなり、だから「霊能」が自分に備わった・・・などと勘違いする。
「霊能力」というのは、影響する「霊の力」である。
生まれながらの霊能者は、生まれながらにして「霊脳」であり、それは「予定された憑依」である。
血統に続く憑依は「血統者」の憑依であり、ユタはユタ、飯綱使いは飯綱使い、犬神使いは犬神使いと、血統に続いてゆく。
それは「黄泉」との接続であり、あらかじめ定められた「血族の意思」によって継続されてゆく。
それとは別に「魂の予定」によるものもある。
それは、魂が予定した生き方をすることで発現される「記憶」であり「憑依」である。
だから「予定」に沿っているかどうかで発現が変わる。
では、霊体に穴をあけ「憑依」を呼び込むことは「予定外」のことである。
言っておくが「予定外」が悪いということではなく、それも含めて魂のさらに奥には「含み」がある。
例えば、霊体に穴を開けることで「感応」の感度が増すわけで、それは今まで手袋で触っていたものを素手で触るようなことである。
そこにたまたま「しっかりした守護神」が付いていれば、惣社にその守護神が感応するだろう。
そして、必要な手続きをするだろう。
しかし、そうでない場合どうなるか?
その辺にうろうろしていた猫の霊が感応すれば「猫のよう」になるし、恨みを抱えた地縛霊が感応すれば「記憶の中の恨み」に感応する。
誰かの強烈な念が生霊となって飛んできていれば、その生霊にやられてしまう。
偶然それがきっかけで「覚醒」する人もいるが、それは「予定」されたものであるかもしれず、守護神のおかげかもしれず・・・・
だが、多くの場合「守護神」はそれほど強くはない。
長生きしている獣の霊などに簡単に押しのけられてしまう。
守護している先祖の霊といえども同じである。
そんな「霊体の穴」を開けたほうは、恐らく「自分が何をしたか」をちゃんと認識できている人と、まったく認識していない人がいるだろう。
ただ「教えられたことを教えられた通り」にしただけ。
だから「責任はない」ということなのだろうか。
ちなみに、私が『龍神和合』をするときも霊体の頭頂部分を開く。
そうしてそこから「龍」を入れるが、それは「その人次第で育つ龍」であり、育てば上昇を始めて「目的の龍神」のもとへと向かう。
それが「道」となり「結び」となる。
そして「開いた部分は必ず閉じて」おく。
閉じておかなければ「いとも簡単に」感化され憑依されるからである。
その「準備と覚悟」が出来ていないうちは、まだ「その時」ではないのである。
そして「準備と覚悟」をした者だけが先へ進める。
エーテル(霊体)は「憑依した霊」の姿に寄って行くものである。
霊体の「照り映えた」姿(エーテル)がそのまま観えるのが弥勒の世界。
それはもう始まっているのである。
ひふみ神示 五十黙示録 扶桑之巻 第三帖
高天原に 千木高しりて 仕へまつらむ。
岩戸(言答)のひらけた、その当座は、不合理に思へることばかりでてくるぞ、逆様の世界が、この世界に入り交じるからであるぞ、親よりも子の方が早く目さめるぞ、子が親となるぞ、さかさまの世界と申しても悪の世界ではないぞ、霊の世界には想念のままにどんなことでも出来るのであるぞ、うれしい、こわい世界が近づいて来ているのであるぞ。
五十黙示録 星座之巻 第十二帖
地上界に山や川もあるから霊界に山や川があるのでない、霊界の山川がマコトぞ、地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ、マが霊界ぢゃ、地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としてゐる、互に入りかわって交はってゐるのぞ、このこと判れば来るべき世界が、半霊半物、四次元の高度の、影ないうれしうれしの世であるから、人民も浄化行せねばならん、大元の道にかへり、歩まねばならん、今迄のような物質でない物質の世となるのであるぞ。
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