『気(エネルギー)の感度』 《癒奏術・弥勒・序》




よく「エネルギーが強い」などという言葉を聞く。

それは、人に対してであったり、場所に対してであったり、物や絵などに対してであったり。


ただ、多くの場合「強い」と言われるエネルギーは「荒い」エネルギーである。

たぶんそれくらいしか感知できないだろう。



人から発せられるエネルギーには様々なものがある。

様々な「層」があると言ってもいいかもしれない。

イメージを簡単にするためにチャクラに例えてみよう。


人が感じやすいのはチャクラで言うところの暖色系。

肉体自我の根源ほど荒く硬いエネルギーであるため感じやすい。

癒しのエネルギーは緑色系であり、そこまで繊細になってくると感じる人は一気に減る。

さらに「無意識の気配り」というもっと繊細なエネルギーでは、感知できる人はほとんど居なくなる。

しかし、どの階層に於いてもエネルギーを発するということは、それだけエネルギー消費しているということである。



荒く硬いエネルギーのパーソナルスペースは狭い。

そして「陽の気」である。

逆に、繊細な無意識層のパーソナルスペースは広い。

そして「陰の気」である。


ここでほとんどの人は間違うのだが、「陽の気」が素晴らしいと勝手に勘違いする。

しかし、「陽の気」は「陰の気」が無ければ破綻する。

行き場を失い矛先は最終的には自分へ帰ってくる。

「陰の気」の『受容』があることで「陽」で居られるということを知らないから間違う。

そして「陰の気」は「陽の気」を受容して「調和」させることで成立する。



例えば、5人の家族が居たとして、そのうち4人が「陽の気」ばかり発するものであれば、残る1人が「陰の気」をもって4人を中和する役割となる。

だが、1人だけ「陰気」だと「なじる」わけである。

自分が陽気でいられるのはその1人のおかげなのに・・・・である。


エネルギーの消費比率は4:1

1人の「陰の気」が4人の「陽の気」の面倒を見ているアンバランスは、当然、1人に負担がのしかかる。

のしかかりながらも「いつものこと」としてそれを続けるわけである。

だが、やがてそれは破綻する。

その破綻原因は「本人が陰気だから」と、また「なじる」わけである。



また、その逆の場合もある。

家族5人のうち4人が「陰の気」で、たった1人が「陽の気」であれば、その1人が「陽」を補うために『頑張りすぎる』わけである。

そうしてやがて調和が崩れてしまう。




世の大人たちは「子供」の「エネルギー中和」に依存して、そのアンバランスによって調和が崩れ子供に不具合が生じても、けっして「自分のせい」にはしないだろう。

子供が不登校になり、引きこもりになり、自殺へと向かっても、けっして自分を顧みることはないであろう。


家庭で培われた「アンバランス」は、学校という箱庭や、社会に出てからも「癖」となって残る。


たった1人の「陰の気」に頼ってきたならば、学校においても「陰の気」に頼り続けるばかりである。

「陰の気」のみならず「癒しの気」などにも依存し、みずからの「陽の気」を受容してもらわねば自分がバランスを崩すからである。

そういったものが「いじめ」や「差別」という現象に「示現」しているのである。


家族だけならまだしも、学校や社会で「多人数」の「陽の気」を受容するには限界がある。



「陽の気」というのは何も「楽しい気」だけではない。

喜怒哀楽の「荒く硬い」エネルギーである。

そして「発散」するエネルギーが「陽の気」である。


喜びや楽しさも「共に味わう」誰かが居なければ成立しない。

それは「喜び」の「発散」を「受容」されて初めて「喜び」となるのである。

怒りも悲しみも恐れもまた同じなのである。

自分一人の「陽の気」が周りを幸せにしているなどと思ったら大間違いである。

それは単なる傲慢でしかない。





以前、不登校の女の子を再び学校へ、社会へ戻るまでの手助けができたことがある。

その子の父は医者で、母は看護師。妹と本人は高校生だった。

彼女は1年ほど「心療内科」に通っていた。

そんな家庭で「どうしようもない」状態のままであった頃に出会った。

その家族全員の「施術」を毎月くらいすることとなった。


始めてその家族に会った時、まず感じたのが、その女の子の繊細なエネルギーが「部屋いっぱい」に広がっていた事。

外の家族のエネルギーは自身の周りだけにとどまっていたこと。

つまり上記のような「3対1」の「陽と陰」の構図が出来上がっており、1人が「陰」を引き受けることで他の3人の「陽」を補っていたという事実である。


だからまず最初に彼女に言った言葉は「気を配りすぎだからそれをやめなさい」ということである。

私や紹介者を含め、そこに居合わせた6人全員の「気」を察知して「気配り」をしていたからである。

つねにこんなに「気」を発動させていれば、当然「気力」は衰えてくる。

それが毎日であればなおのこと。

そりゃ引きこもりたくもなるわけである。


一つ一つ、いちいち彼女がやっている「気配り」について説明し、それをひとつずつ「やめる」ように言ったわけである。

そうしてエネルギー対比の「バランス」を整えていく。


その後、3か月ほどして「バイト」を始め、やがて「学業」に戻る意欲が出て(エネルギーが回復)、今では大学に通っている。




これだけ「スピリチュアル」が流行り、エネルギー云々と言われているのに、未だ「これくらいの」エネルギーを読み解けないのはいかがなものか?

一体、何をもってエネルギーだ気だと言っているのか?




掃除され整えられた場所というのは気分がいいものである。

綺麗な神社仏閣などはそういうものである。

それを「エネルギーがいい」などと言う。

大勢の人が行きかっているため、荒いエネルギーが交差する。

だから「強い」となる場合も多々ある。


本当にエネルギーを感じる人は「エネルギー当たり」を起こす。

それは喜怒哀楽の荒い感情のエネルギーが飛び交っているためであり、人が多すぎて「受容」しきれなくなって目を回す。

「陰」から「陽」に転化して、自らも荒い「陽」の発散するエネルギーに転化すればいいのだが、そんなことをやすやすと出来る「学び場」など無いわけで、「受容」するものは「受容」し続けてしまう。

逆に「発散」するものは「発散」し続けてしまう。


これを自分の中で「調和」させるのがエネルギーを真から知ることであり、最も「調和」されたとき、そのエネルギーは「癒しの緑」となる。

ちょうどチャクラの真ん中、第4のハートのチャクラの色である。

陰陽どちらにも対応できるから「癒し」と呼ばれる所以であろう。




もし、それがわかる人が「場」を整えたなら、そこは「陰陽調和」した場となるだろう。

「陰」の人が整えれば「陰」となり、「陽」の人が整えれば「陽」となる。

整えられた「場の陰陽」がわかれば、その場所はもっと違ったものに見えてくるはずである。

だが、そんな「場」も、乱れたエネルギーの人が多く入れば場のエネルギーは乱れる


また、人がいなくても「場」のエネルギーの「まだら」がわかれば、さらに見えてくるものがある。

だがそれはまだ「神を知る入口」に過ぎない。


さらにその前に「陰」と「陽」の良し悪しの概念を正さねばならないだろう。





耳で見て 目で聞き 鼻で物食ふて 口で嗅がねば 神はわからず

・・・出口王仁三郎氏