『舵』の手放し 《癒奏術・弥勒・序》
来年5月(2024年5月)の『グレートリセット』に向けてどんどん舵が切られ始めている。
もはやリミットは1年を切ったが、では1か月前の4月に何が出来るかというと実際のところ「何もできない」であろう。
であれば最終リミットは恐らく「惑星逆行」が終わるまで。
特に土星以遠の惑星の逆行が終わるまでがリミットだろう。
それらが順行すれば、もはや「流れ」は出来てしまう。
まぁ、事ここに至ってはもはやどうしようもないのだが、今「手放し」出来ないならば、この先ますます手放しなど出来ない。
この逆行中に「逆行」の流れに乗ってしまえば、まるで「進んで」いるように思えるのだから猶更である。
「逆行」していても「進んでいる」ということが「逆さ」であることを超えて大切である人にとっては、順逆どちらでもいい話なのである。
あとひと月もすれば冥王星は順行へ戻り、土星、海王星、天王星と来年1月までには順行に戻る。
してみればリミットは「今年いっぱい」であろう。
手放し手放しという意味は「舵」を手放すことである。
人は「握って離せない」ものがあれば、それを「手放さない」ための「舵」を切る。
それを握り続けるために「舵」をとり続ける。
だから『風』になれないのである。
握って離さないものは一つだけ。
それが「魂」であり「魂に還る」ということである。
未だに「この先どうなる?」ということを気にしている。
それは「何処へ向かえばいいか?」を気にしているからである。
そうして人は「舵」を握る。
それは、未だに意識が「旧世界」のままであるということ。
まだ「パラダイム」の檻の中。
「マトリックス」の檻の中。
「箱庭」の檻の中である。
それらの「檻の中」でいくら「真新しいこと」や「違うこと」をしても、結局のところ「檻の中」であることに変わりはない。
「〇〇している」という事実をもって「進化している」という勘違いは、やはり意識そのものが切り替わっていない証である。
何かを「する」ということで認める認めないという意識が「旧世界」の在り方そのままなのである。
自分が「進んでいる」と思いたいから、「変化している」と思いたいから、「上昇している」と思いたいから『何か違うこと』『何かあたらしいこと』を【する】という「枷のはまった意識」そのものなのである。
その「檻の中」で、その「思い込みの中」で「生きられるなら家畜でもいい」から・・・というならそれでいい。
今までのように「少しの幸せな嘘」を味わいながら進んでいくのがいいならそれでいい。
私には関係のない話であり、関係のない人々となり行くだけのことである。
進むものと戻るもの
目覚めて進むものと目覚めながら戻るもの・・・と言った方がいいだろう。
何が違うのか?
【軸】が違うのである。
「すること」という自分の『外側にあるもの』に軸を置いているか、「在ること」という自分の『内側にあるもの』に軸を置いているかという違い。
それはもはや『相容れない』ものとなる。
やがて軸の違う「白黒まだら」な時間は終わり、白と黒にはっきり分かれゆく。
外側に軸を置いていながら「自分軸」だと思い込んでいた多くの人が、それに気付くことが出来るのか?
未来を見据えて「やりたいこと」をしているから「自分軸」であるという勘違いに気付くことが出来るのだろうか?
「やりたいこと」に囚われて、結局は「やりたい」という『すること』に軸を置いていることに気付けるのだろうか?
『すること』に軸を置いて、それを『在り方』であると自分の意識に「すり替え」を行っていることに気付けるのだろうか?
長い年月の間、自分の意識に「すり替え」を行っていた事実に自分は気付けていないだろう、ということに気付けているのか?
ちゃんと自分を遡(さかのぼ)って自分に向き合った者にしか気付けない。
「いつから」すり替えを始めたのか?というところまでたどり着かなけれそこからは抜け出せない。
そして、そこから抜け出せなければ「弥勒の世界」は拝めない。
自分の中に「軸」があるなら、「何をしていても」自分である。
それを認められない心があるから「すること」に囚われる。
同時に他者を測るのに「すること」を見ているわけである。
自分がしたいこと・・・という時、自分がしたいと思える「すること」へと意識が向く。
それが外側に軸がある「証」
自分がしたいこと・・・というのは「その時その時」で『したいと思い行動』することである。
「すること」に「決まった形」などない。
結局、その「枷」を離さない限り、上げようとしても「上がらない」のである。
上げたつもり、上がったつもりの過去の在り方を望むなら、そこに居続ければいい。
ただ私には関係のない世界である。
「つもり」のためにもはや何もする気にはなれない。
ただ本気で「弥勒世界」を望むなら、いくらか力は貸せるであろう。
だが自分で歩く意思なき人は、ここから先は「さようなら」である。
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