【闇(病み)堕ち】~覚醒に付随する試練 《癒奏術・山桜の章》
私が再三にわたって『情を手放せ』と言い続けているのは、『情け』によって【闇堕ち】するからである。
覚醒へと至るということは、霊界への扉を開くことであり、それはつまり「あちら側から見られ始める」ということである。
だがしかし、こちら側からあちら側が「見えているわけではない」ということ。
そして「あちら側のことを何も知らず扉を開いた」ということでもある。
何も知らず足を踏み入れた世界が、いったいどんな世界なのか?
無知で初心なものが「心の中をさらけ出して」知らない世界を徘徊している様を想像すればよい。
そして、あちらの世界は「魑魅魍魎」が跋扈している。
その中には【神】と呼ばれるものもいる。
だが、どうしてそれを見分けられるのか?
まだ見ぬ世界で【神】と出会うことを夢見ていても、三千世界のどこに繋がっているかもわからず、そんなときに「初めて出会ったもの」が「さらけ出したままの心」を見て
『あぁ、こいつはそんなものを求めているのか・・・』
といって「さらけ出された心」を見て取れば、いくらでも「求めるもの」に化けられるのである。
様々な者が跋扈する世界で、覚醒して上がるということは、【神】や「守護霊」などだけでなく「邪霊」「蛇霊」「獣霊」「悪霊」「悪神」「悪魔」もそこにはいるのである。
神に近い霊獣などは、必ずと言っていいほど「試し」をする。
そして【神】はそれを見守る。
途中、横道に逸れることのない魂であるかどうか・・・
簡単に逸れるような魂を、わざわざ助けることはない。
「誰でも彼でも救ってくれる」と思っているなら、まず間違いなく邪霊にそそのかされて【闇堕ち】するだろう。
「良い事」を言うのが【神】だと思っているなら、簡単に横道に逸れるだろう。
高級な霊になるほど人の心を惑わすことは容易い。
ましてや【神の理想像】など描いているのなら、それになってしまえば騙すことなど簡単なのである。
悪霊、邪霊たちは人の「情」に付け入る。
本人が「情」とは思っていない「情」に、見事に付け入ってくる。
愛と情の違いも分からぬうちは覚醒など無理にせぬことである。
善には「愛善」と「情善」がある。
悪にも「愛悪」と「情悪」がある。
どんなに善人でどんなに高尚な人であっても、善の根源に「情」が入っているならば、その「情」をからめとられてやがては【闇堕ち】してゆく。
美しく見えた理想的な善は、悪へと巡り暴悪として暴走しゆく。
魂の欲求と言うものは「先天的」なものである。
だが、ほとんどの人は魂の欲求を「後天的」な欲求にすり替えている。
善の中に「情」が混じっているというのはそういうことである。
「情」の中に「慾」があり、それは後天的な性格を作り出しているとも言えるものである。
魂に還るとは「後天的」なものをそぎ落として「先天的」な自分の状態に還るということ。
だから仏陀の誕生の物語で、生まれてすぐ七歩歩いて天地を指さし「天上天下唯我独尊」と仏陀は語った・・・・という物語でそれを教えている。
母に抱かれるその前の状態。
母に抱かれるという後天的な「情」に目覚めず、それらが一切沸いていない状態である。
つまり、自分の根源の「情」というものに気付けなければ、いとも簡単に邪霊悪霊に絡め取られてしまうだろう。
イエスも仏陀も覚醒後、何度も悪魔と対峙している。
そしてそれらを押しのけて「目覚め」を【確定】させたのである。
それを乗り越えて初めて【神】が差し伸べる手を取れる。
キツネが美しく化けた女性を女神と崇め、天狗が化けた厳めしい姿を神と崇め、悪魔が化けた天使を天使と祀ろい、蛇の心地いい囁きに踊らされ、悪霊の力に溺れて自らの慾を満たし・・・
そしてやがてその「ツケ」を払わされる時が来る。
人の「情」は霊たちが「霊懸かり」するための「手がかり」であり「足がかり」である。
「情」にエネルギーを送り込み、「情」を心に沸かせ、心の中を「情慾」でいっぱいにする。
それが霊たちが人を動かすための「ハンドル」であり「舵」である。
そうして操られた人は、他人の「情」に絡みついてゆく。
そうして相手の「情」を沸き立たせて、相手も「霊懸かり」にしてゆく。
まるで【蔦草】が這い伸びるように・・・・・
それゆえに【修祓】では『情』の根源を祓う。
そして祓い禊がれた状態が維持できれば、次の段階へと歩を進めることが出来る。
【神人和合】の道の最中には必ず「悪霊」「悪神」が現れる。
そして必ず「情」を掘り起こされるだろう。
それでも自らの意思でそれを鎮められるものだけが、神への頂へとたどり着くことが出来るだろう。
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