【琴線】~言の調べを奏でる神の御言 《癒奏術・山桜の章》




平安の頃の人々は、その心に多くの【琴線】を持っていた。

それは「感じる心」であり「見る心」であり「聞く心」であり「伝える心」であり「味わう心」であり・・・・


「うた」という一定の規則性という「縛り」の中で、言葉をもって「伝える」ための「術(すべ)」が、『言葉を奏でる』というものとなる。

それゆえ「うた」と言うのだろう。


たった五、七、五という言葉の中に、音色を響かせ音階をつけ調子をとる如く『言葉を奏でる』ことで、色を伝え、香りを伝え、音を伝え、味を伝え、温度を伝え、喜怒哀楽を伝えゆく。

そのためには自らの「心」という「琴」に多くの「琴線」が張られていなければならないし、受け取るほうも同じく多くの「琴線」がなければ受け取れない。


幾重にも重なる心の「階層」のように「琴線」が張られている。

だから多くを語らずとも「琴線」へ届ける「言葉」を「奏でる」だけでいい。


たった一つの単語を語っても、その響きの中には色があり香りがあり味わいがある。

それは、言葉の中に色を付け、香りを付け、味わいを付けるからである。



神の御言はそのような言葉であり、だから言葉少なくとも味わい深く芳しく美しい。

たった一言の中に膨大な情報が含まれているのである。




だが現代人はこの「琴線」を置き去りにしてきた。

だから、全く同じ「言葉」、全く同じ「単語」であっても、それを語る人によってその言葉は全く違うのであるが、その「違い」になかなか気付けない。

それは、子供のころから繰り返し刷り込むように行ってきた「一つの問いに一つの答え」という習慣ゆえである。

そしてこれを『答えは一つ・・・のパラダイム』という。


それゆえ現代の人は「一つの琴線」のみで語り、「一つの琴線」のみで見聞きする。

常に爪弾かれる心の琴線は一本調子。

だから、一本弾いてはまた一本、そしてまた一本・・・

一本調子を何度も何度もいろんな角度から爪弾くことで、ようやく「姿」を認識する。

それは、言葉に対して説明し、さらに説明に対して説明し・・・・

そんなことをしなければならないほどに「心の琴線」が乏しくなってしまった。



神の言葉には「調子」があり、「波」があり、「彩り」があり、「味」がある。

だが人は「意味」ばかりを求め、「一つの答え」ばかりを求めるから、『真意(神意)』が一向に伝わらない。

この『神様ごとに違う音色』があるのだが、その「違い」を取りこぼす。

だから「審神者(サニワ)」が出来ないわけである。



神の御言を受け取るならば、この「琴線」を鍛えなければならない。

それがわからなければ、言葉の中の「愛」と「情け」の違いもわからない。


現代人が現代人と会話するような言葉を神様方はけっして使わない。

外堀から埋めていくような現代の日本人の会話ではなく、「核心」から広がりゆくような御言なのである。


もっと高度な神様になれば「語る」ことさえ稀である。

「語る」よりも「示す」のである。


説明を欲するのは人の性であり、それにいちいち忖度するようなことはない。

だから「示された」ものをしっかりと見て、聞いて、味わって、感じて、自らの「琴線」で「示し」を再現するように奏でたとき、その「示し」の彩り、香り、音色、味わいがわかるのである。



下照姫や高照姫は「よくしゃべる」ほうである。

それでも必要最小限であり、「核心」を貫く言葉である。

その上の三女神や木花咲耶姫、乙姫さんは、「示し」に添えて一言二言付け加えるくらいである。

瀬織津姫に至っては、「事」をどんどん進め行く。

その中で問いかけに対して一言二言・・・

問わなければどんどん進んでゆく。


『黙って付いてきなさい』

ということを「無言」で伝え来る。


【女神】とはおおよそこのようなものである。



変わって【男神】はけっこうしゃべる。

よくしゃべる・・・が会話が早い。

ちょうど卓球をしているように「言霊(玉)」をポンポンと打ち合いしているようである。

だから、必ずこちらの方が打ち返すのが「遅い」というのが常である。

ポンっと飛んできた言霊を開いて理解し、それに対して言葉を返すわけであるが、言葉を返そうと「思った」時にはすでに「言霊」は飛んでいる。

だからそれをすぐに打ち返され、再び開いて理解し打ち返す。

「思う」だけで打ち返しており、向こうも「思う」だけでこちらに飛んでくるわけであるが、「言霊」を理解する速度が雲泥の差なのである。

頭で考えていたら対話は成立しない。

「思い」のやり取りであるから、言語化している間に「返答」されているわけである。

これに慣れなければ【男神】とのやり取りは成立しない。


この「思い」のやり取りをして、記憶したものを「後に」言語化して再度味わう。

これが【国常立神】との対話である。



人の「思い」などは神々にとっては「手に取るように」わかるのである。

「思った瞬間」には赤裸々に伝わっている。




神の御言を聞きたいなら、自らの「琴線」を育て上げなければならない。

そしてさらに「パラダイム」を破壊しなければならない。


いくら神が「示し」を与えても、自分の都合のいいように捻じ曲げてしまえば、もはや示しは訪れなくなる。

それは「与える」ことで「曲がる」からである。

それならば初めから「与えない」ほうがいい。


せっかく「核心」をついた「示し」があっても、受け取る側が「核心」を突かれることを恐れて逃げるなら、もはやどうしようもないのである。

それは「救いの手」を『払いのけた』のと同じこと。



自分の中に『嘘』があるなら、神の示しは捻じ曲がる。

だからそんな『嘘』を掃除洗濯して綺麗にしなければならない。


自分を騙す癖がついた現代人にそれが出来るかどうか・・・・


全く使わず埃をかぶって、もしくは切れたまま放置された「琴線」を、掃除洗濯してちゃんと鳴るようにしなければ、「三界共和」など出来ない。

守護の導きも伝わらず、神の示しも捻じ曲がるばかりでは、「お出直し」となるしかないのである。

木々や草花なら「琴線」も多くはなく、伝わりやすく伝えやすいから、そこから魂はお出直しとなり、学び直しとなるだろう。