『国常立大神 最後の御言』 《癒奏術・風の章》
ここで「最後」というのは、ここで表す「最後」ということである。
伝えても伝わらないものを伝えることもこれでようやく終わりである。
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いくら言葉で伝えようと、自分勝手に言を捻じ曲げるものばかり。
ゆえに言葉で伝えるは仕舞じゃ。
ここから先は「磨けた」ものだけが受け取れることとなる。
御魂が鏡のように磨けたものだけが、その鏡に御言を映すことができる。
天照皇大神の御言は磨けた鏡にしか映らぬ。
御魂が磨けた者にしてみれば、やいやいうるさい神様であるとわかるであろう。
だがそれは今だけぞ
今わからぬ者は永久にわからぬ。
最後の最後の露払いを致しおる大神様である。
ありがたきことこの上なし。
天の大神様の御言を地の素佐鳴の大神様が示現する。
天の大神様の御子らの御言を地の素佐鳴の大神様の御子らが示現する。
示現された事象の中に「御言」が溢れる。
示現されるということは、「御言」はすでに降っている。
示現の次元にいるならば、それらは皆等しく降りてきている。
だが磨けた御魂にだけそれは誠の姿で映る。
曇り、汚れ、歪んだ御魂に映るのは、曇り汚れて歪んだ姿。
同じ御言を全く別ものに受け取る。
言葉にしてもそう(受け取れない)であるのに、言葉ではない御言などどうして受け取れようか?
もはや言葉は要らぬ。
言事(九十九十) 事言(九十九十) 以心伝心
磨けた御魂 真中の柱
映りたものからさようなら 神風に乗り高天原
おかえりなさい ただいま と 言言交わす時近し
真中の真中は針の穴 サイの角となり通りゃんせ
真中の柱がサイの角 真中なけりゃ穴あらじ
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