『病みは闇を呼ぶ』~身体の邪と霊の邪 《霊身一致の理》(続・華厳の道)
2021年夏ごろから、一斉に『霊懸かり』が増えた。
それは「身体の衰え」と同時に、重なる「霊の力」が衰えたからに他ならない。
気付かないうちに身体は蝕まれ、それを認識する「感覚」までも蝕まれた。
それは、「感覚」のスイッチを「オフ」にすることで、自らを麻痺させるという自衛の本能である。
「感覚」のスイッチを切れば、当然「思考」のスイッチも切り替わる。
そうして霊的感覚に「曇り」が生まれ、その曇った「影」に「霊」が取り憑く。
せっかく次元上昇と共に上がり始めた人の意識は、身体の陰りに追随するように霊体にも陰りを生み、開きかけた「岩戸」は閉じられていった。
以来、「櫻傾」「沙羅樹」「華厳」「龍人和合」の施術をするにも、今まではスッと上げれていた魂も、大きな揺さぶりをかけて「蓋を開く」ことをしなければ『上がらない』ところまで落ち込んだ。
また、私自身のエネルギーも同じく、自然な流れで上昇気流を作り出せていたものが、クンダリーニを圧縮して押し上げなければならないほど、人のエネルギーは「重く」なっている。
明らかに「思い」のエネルギー波動が「身体の影響」に比例して重くなってしまっている。
身体の曇りと同じく、霊体の曇りがエネルギーに影響し、まるで「湿気」を帯びたようになっているため、邪霊がすぐに湧いてくる。
私自身の周りにも当然のように湧いている。
ちょっとスキを見せればすぐに張り付いてくる・・・・・
今はそんな状況なのである。
自ら反射的に「感覚」のスイッチを切り、思考を切り替えたことに気付かず、それゆえに邪霊の影響に鈍感になる。
「感覚」が狭まれば当然のことながら「思考」も狭まる。
そんな中で人々の「想念」は「鬱々」として「曇り」が広がり、さらに幽界に「影」を生み出し、彼らが活動しやすい環境を作ってしまった。
その結果が「九分九厘の霊懸かり」となる。
常に霊懸かりしているわけではない。
自分の守護が懸かるように、何食わぬ顔で邪霊が懸かる。
今までと違う「自分」が現れているのだが、「感覚」と「思考」を狭めた状況であるため気付かない。
マスクで顔を隠し、人との接触も減っているから、気付かれることも減っていく。
だからますます邪霊は増長し、堂々と、抜け抜けと人に影響してゆく。
「感覚」の狭窄が「思考」を狭め、さらに「視野」も狭める。
より「感情」に左右されやすくなり、情動に行動が振り回されてゆく。
それでも「今まで通り」と思って疑わない。
そもそも自分を「疑う」ことをしてこなければ気付けないだろう。
それほどこの2年で人々の波動は「落ちた」のである。
おそらく「例外」は居ない。
気付いているか否か・・・の問題である。
そこから脱するには「気付く」ことである。
それしかない。
だが、「気付く」ことを避けて「感覚」を切り「思考」を狭めているわけである。
それを「解除」するには自らの「魂」の位置に立ち、自らの身体を魂が「支配」しなければならない。
しかし、それをすれば「感覚」は戻り「苦しい」状況を味わうことになるだろう。
なにより、「それ」を避けているのだから・・・
体主霊従のまま「気付き」を避けた状態で居るか、「気付き」を取り戻すため魂に戻り霊主体従となるか・・・・
「宇宙(そら)」へと上がるか、留まるか・・・
「留まる」選択をしたものは多い。
ここからどうするのか?
蟹座の新月が問う・・・・・
五十黙示録 龍音之巻 第三帖
世界中が霊かかりとなると申してあるのは今のことであるぞ、かかりてゐる世界自身わからなくなっているぞ、サニワせねばならん、サニワの方法書き知らすぞ。世界を、日本を、自分をサニワせねばならん。目に見へぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的となるものであるぞ、ドタンバタン、大声でどなり散らすのは下の下。神もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん、高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するのであることを忘れてはならんぞ、下級霊は現実界と紙一重の所に住んでゐるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤もらしく人民の目にうつるものであるぞ、高度のものは、その人民のミタマの如何によって、それと同一波調の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降って来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。また天使の霊が母体に宿り人民として生れてくる事もあるぞ、末世にはこの種の降誕人が沢山あるぞ。
第十九帖
霊の発動をとめて、静かにする法は「国常立大神 守り給へ幸はへ給へ」と三回くり返すこと。又「素盞鳴大神 守り給へ幸はへ給へ」と三回くり返すこと、又は「太日月地大神 守り給へ幸はへ給へ」と三回くり返すこと。
世界そのものの霊かかり、日本の霊かかり、早うしづめんと手におえん事となるが、見て御座れよ、見事な事を致してお目にかけるぞ。
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