【龍とチャクラと霊身一致のエネルギー】 《神人一致の癒奏術》(続・華厳の道)




天地不二、神人合一。天は地なり、地は天なり、不二なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。

神、幽、現、を通じ、過、現、未、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国実現を以って教旨とせよ。

ーひふみ神示 ア火ハ(エホバ)の巻より





生きている人の「霊」の強さは「肉体」から得られる「エネルギー」によるものであり、霊体は「チャクラ」によって肉体と繋がり、そのチャクラの「開花」によって「霊身一致」状態となる。


チャクラから発動されるエネルギーは『龍』というあの世とこの世の「狭間」に存在し、どちらにも影響力のあるエネルギーと同じものである。


つまり、チャクラの開花からクンダリーニのエネルギーを発動させるということは、『龍』と同等のエネルギーを纏う存在へと自身を昇華させることである。

そして、それが『次元を超える』ことの出来るエネルギー体となるわけである。




いわゆる「中枝の神」と言われる幽界の神々は『龍体』を持たない。

しかし、古(いにしえ)の神々は『龍体』へと変化する。

これは「次元」を超えられるか超えられないかという大きな差異である。


古の神々が次元を移行するとき、『龍体』へと変化する。

さらには自らの『分魂』を生み出すこともできる。

それは「圧倒的」な違いなのである。




人は長い間「中枝の幽界の神々」を崇め奉ってきた。

肉体を手放し「幽体」として存在する彼らを「神」として、人は何故か「願い」を託す。

だが実際は「肉体」を持つ「人」のほうが「力」がある。

『龍』と同等のエネルギーを発動させ、古の神々のように「次元を超える」ことが出来る力があるというのに、自ら「無力」とし、それがゆえ「無力」と化すという「呪い」を自らにかけている。

そうして逆に「幽界の霊」たちに「利用」されているとも知らずに・・・・



神社も教会も「ある一定の幽界の神」に「力」を捧げるシステムとなっている。

彼らは大地から栄養を吸い取る木々のように、人々からエネルギーを得て力を持つに至った。

本来、崇められるべき【神】へと向かう力を、「川の水を治水によって分ける」如く「人々の想念のエネルギーの川」を「分けた」のである。



清らかで繊細な想念のエネルギーは次元の高みへと向かう。

しかし、欲や邪な想念のエネルギーは荒く重く、幽界を漂う。

だがそういった邪なエネルギーのほうが幽界の霊にとっては好都合である。

ゆえにエネルギーの「流れ」を変えたのが「霊界における岩戸閉め」となる。


そうやってエネルギーの流れをコントロールすることで、より大きな「川の流れ」を生み出してゆく。

そうして幽界と全く同じ現象が現界に写っているわけである。



今、現実世界は大きな渦となって集約されようとしているのは、幽界でも「同時に」起こっている現象であり、現実界の歪みが「力の潮流」となって幽界に写り、幽界も現界も「同時進行」で大きな渦が巻き起こっている。


かつて人であった様々な霊が、幽界で「何を」しているのか?

現実世界を見れば想像は容易いはずである。



幽界の善神たちは「負け戦」の只中にある。

わずかばかりの悪神に付き従う圧倒的大多数の「日和見神」の姿は、悪神という頭に連なる大蛇の胴体さながらである。



地球の次元上昇によって近づいた次元の距離は、想念をより色濃く幽界に反映させ、そのエネルギーを利用され続けている。

そのエネルギーの歪みと共に、人の本来の縦糸の先にいる五次元の自身の守護神も「日和見」と化し、大きな流れを作っているのである。

ゆえに「守護」は「守護」ではなくなり、ねじ曲がった「守護神」に導かれて、ねじ曲がった現実を現出される。





最初に戻る。

人は肉体があることで幽界の霊よりもその力は強い。

神頼み、霊頼みするまでもないことは、火を見るよりも明らかなのである。

だが人は神頼み霊頼みをする。

それは単なる『怠慢』なだけである。


「自分で出来ることをしない」という『怠慢』なだけである。


その手足を使い言葉を使い知恵を使えば「いとも簡単に」出来てしまうことを、『怠慢』ゆえに自分でしないだけなのである。

『祈りの力で奇跡を起こす』などというものは、『手足を使えばいとも簡単に』できてしまうことなのである。



【神】さえ手が出せないこの現実世界に、唯一「意思を持って手を出せる」のは【人】だけなのである。

中枝の神々にどうして現実世界に手を出せるというのか?


古の神々の導き、中枝の神々の導き、悪神の導き・・・・

かれらは『感応』という手段での導きしか与えられない。

心に「気付き」しか与えられない。

それを『選択』しているのは他ならぬ「自身」なのである。



自身が何に気付き、何を選択し、何を行動しているか?

いくつもあるはずの「気付き」の中で、何を選択し、何を行動しているのか?


更に言うなれば「何を選択するように仕向けられて」いるのか?


それが理解できたなら「人の岩戸(言答)」は開く。

そして、岩戸が開けば自らの「守護神」であるはずの存在の「歪み」も正せるのである。

だが、守護神ともども「歪んで」しまっていてはどうしようもない。


自身の「選択」の癖は守護神の癖でもある。

自分で自分の「癖」を治すのか、それとも「神」のせいにして自身は何もしないのか・・・・

それすらも守護神の癖であろう。



守護神は善神であるという思い込みは捨てることである。

「神」とは呼ばれているが「古の神々」とは『雲泥の差』なのである。

それは「木の幹」と「枝」の違い

そして人は枝の先に咲く「花」である。



人は、長らくつぼみのまま生涯を終えてきた「咲かぬ花」である。

その花は「岩戸(言答)」が開けば咲き開く。




だが今、多くの人はDNAまでも破壊されている。

そして・・・気付かない。

それが何を意味するものか?

それすらわからなければどうしようもないのである。







ひふみ神示 五十黙示録 龍音之巻 第四帖

霊界と申しても神界と幽界に大別され、又神界は天国と霊国に分けられ、天国には天人、霊国には天使が住み、幽界は陽界と陰界に分れ、陽霊人、陰霊人とが居る、陽霊人とは人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性をもってゐるぞ。高い段階から申せば善も悪も、神界も幽界もないのであるが、人民の頭で判るように申してゐるのであるぞ。幽界は本来は無いものであるが、人民の地獄的想念が生み出したものであるぞ。 


第五帖

幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の霊かかりの殆どは この幽界からの感応によることを忘れるでないぞ。霊かかりの動作をよく見極めればすぐ判る。高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものは必ず下級霊であるぞ、インチキ霊であるぞ、インチキ霊にかかるなよ、たとへ神の言葉でも尚サニワせよと申してあろう。迷信であってもそれを信ずる人が多くなれば、信ずる想念によって実体化し、有力な幽界の一部をつくり出すことがあるから気付けておくぞ。無き筈(はず)のものを生み出し それが又地上界に反影してくるのであるから心して下されよ。今の人民 九分九厘は幽界とのつながりをもつ、胸に手をあててよくよく自分をサニワせよ。 


第六帖

霊的良識は、神示や神典類によって、又体験によって養はれ、又高度な科学書も参考となるものぞ、科学を馬鹿にしてはならん。幽界の霊であっても高度のものともなれば、神界の高級神霊と区別することが六ヶ敷いぞ。初歩のサニワの誤り易いところであり、又霊眼するものの誤り易いところ、注意しなければならん、例へば霊光の如きものも強く大きくて中々にサニワ出来ないぞ。 


 第七帖

仙人と申すものは如何に高度なものであっても、それは幽界に属す、仙人界には戒律があるからぞ、神界には戒律なし、戒律ある宗教は亡びる、マコトの宗教には戒律はないぞ。しかし神界にも仙人的存在はあるぞ。 


第八帖

龍体をもつ霊は神界にも幽界にもあるぞ、龍体であるからと申して神界に属すると早がってんならん。